(大河ドラマ)鎌倉殿の13人(全48話)の感想とあらすじは?(主人公:北条義時)

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大河ドラマ館の入り口(2階部分)

大河ドラマは、見続ける自信がなかったのですが、2008年の「篤姫」以来、久しぶりに初回から最後まで全48回を生で見ました。

2022年の大河ドラマの舞台となるのは鎌倉時代、主人公は北条家の2代目北条義時です。

北条義時の父・北条時政は謀略にまみれた人物のイメージがありますが、その北条時政を上回ったのが北条義時でした。

「鎌倉殿の13人」には原作は無く、三谷幸喜氏によるオリジナル脚本です。

ダークなイメージが付きまとう北条義時を、脚本家の三谷幸喜氏がどういう人物として描くのか?

三谷幸喜氏がどのように史実と向き合って脚本を書いたのか、2022年12月15日付けの読売新聞のサイトに時代考証を担当した坂井孝一先生が述べています。

とても面白い内容ですので、一度この記事を読むのをおススメします。

三谷幸喜さんは人間ドラマを描いているので、もちろん学説とは別の描き方になります。ご自分でもいくつかのメディアに書いておられますが、三谷さんは義時を「闇落ち」させて、最終的には映画『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネのようにしようと思っているようです。そこで義時を悪人に、実朝を純粋な人に描いて対立するような脚本にしたんです。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20221212-OYT8T50105/
『鎌倉殿の13人』いよいよ最終回…「三谷脚本」は史実とどう折りあったか 時代考証に聞く<上>
【読売新聞】編集委員 丸山淳一 主人公の北条義時を小栗旬さんが演じたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が、12月18日放送の第48話で最終回を迎える。伊豆の小豪族の次男に過ぎなかった義時が、源頼朝の側近となり、し烈な権力闘争に巻き込

北条義時については下記の本が入手し易く読みやすいです。

ドラマの舞台となる時代については下記にまとめています。

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北条義時

北条義時と後鳥羽上皇と承久の乱

北条義時の約60年の生涯の中で最も重要な出来事が、晩年に起きた「承久の乱」です。

承久の乱については下記2冊が読みやすいです。視点が異なるので、読み比べるのが良いと思います。

鎌倉幕府の成立よりも、承久の乱の方が、日本史に与えた影響は大きかったと思われます。

大学入学試験で論述問題を課す大学の過去問を見ても、承久の乱の方が重視されています。

承久の乱の与えた影響については隔年でどこかの大学で問われているイメージですが、鎌倉幕府の成立についてはほぼ問われていません。

承久の乱は、乱そのものよりも、戦後処理が後世に与えた影響が極めて大きい乱でした。

「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の人生のクライマックスは承久の乱ですが、乱が起きた1221年から3年後の1224年に急死します。

この急死に様々な憶測が飛び交ったようです…。

さて、 大学入学試験で北条義時が直接的に問われたのが、2019年の京大の問題でした。

問われた内容は「執権政治の確立過程における北条時政と北条義時が果たした役割について」でした。

北条義時の生涯概略

北条義時の生涯を、ドラマの時系列でいくつかの段階に分けると次のようになります。

北条義時の生涯
  • 1175年~1199年

    源頼朝が北条家に逃げ込んでから亡くなるまでの期間です。この頃はあまり目立つことがなく、父・北条時政が北条家を握っています。歴史の表舞台に出てこない時期です。

  • 1199年~1204年

    源頼朝が亡くなり、2代目将軍・源頼家の時代です。このわずかな期間で、北条義時が歴史の表舞台に登場します。最も謀略に満ちた時期であり、激しい権力闘争の時期になります。「ゴッドファーザー」の権力闘争が頭をよぎります。(音楽はゴッドファーザーよりも「アンタッチャブル」のイメージです。ゴッドファーザーのような哀愁を感じない緊迫した権力闘争ですので。)

  • 1204年~1219年

    3代目将軍・源実朝が暗殺されるまでの期間ですが、この期間に北条義時は鎌倉における北条家の地位を固めます。北条家から父・北条時政を追い出し、将軍は源氏将軍から摂家将軍へすげ替えました。ここから20年ほどが北条義時の時代です。

  • 1219年~1221年

    後鳥羽上皇との対立から承久の乱に至るまでの期間です。源実朝の暗殺をきっかけに、朝廷との関係が悪化し、承久の乱へ突き進んでいくことになります。乱の戦後処理の結果、朝廷は武力や所領を失い、鎌倉幕府は西国にも実質的な支配権を伸ばしました。

鎌倉殿の13人とは(十三人の合議制)

源頼朝の後を継いで鎌倉殿となる源頼家の時に始まるのが十三人の合議制です。

源頼家が頼朝同様の強大な権力を持つことを御家人は歓迎しなかったと考えられています。

そのため、有力御家人は将軍のもつ多くの権限を制限し、源頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取り上げて合議制を始めます。

十三人の合議制への移行は、源頼朝の死からわずか3か月で北条時政、大江広元、三善康信らによって始まります。十三人の合議制はのちの評定衆や引付衆に連なります。

十三人の合議制のメンバーは次の通りです。

  1. 文官4人
    • 大江広元
    • 三善康信
    • 中原親能
    • 二階堂行政
  2. 武将9人
    • 北条時政
    • 北条義時
    • 三浦義澄
    • 八田知家
    • 和田義盛
    • 比企能員
    • 安達盛長
    • 足立遠元
    • 梶原景時

鶴岡八幡宮の大河ドラマ館

鎌倉の鶴岡八幡宮の平家池側にある鎌倉文華館鶴岡ミュージアムに2022年3月1日(火)~2023年1月9日(月・祝)までの期間で2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の大河ドラマ館が設置されました。

開館時間は9:30 ~ 17:00(最終入館16:30)です。

出迎えてくれる肖像画の人物はPR担当の北条さんです。残念ながら北条義時ではありません。

https://taiga-kamakura.jp/
鶴岡八幡宮内の大河ドラマ館
北条義時像
大河ドラマ館からの平家池の風景
PR担当の北条さん
大河ドラマ館
大河ドラマ館
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あらすじ/ネタバレ/雑学

ここから下はドラマのネタバレがあります

今回の大河ドラマの舞台は平安時代末期から鎌倉時代前期になります。

ドラマは1175年から始まります。ちょうど源頼朝が北条家に身を寄せるところです。北条家にしてみれば、全ての始まりの年になります。(1175年は大きな出来事は起きておりません。)

脚本が三谷幸喜氏ということでコミカルな演出とシリアスな場面のギャップが予想通りでした。脚本が三谷幸喜氏でなければ初回を見ていなかったと思います。

奇しくもほぼ同じ時期に、同時代を扱ったアニメ「平家物語」が放映されました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の始まりにあたって

八重

ヒロインは八重か?北条義時の妻となるのか?北条泰時の母となるのか?

時代考証を担当している坂井孝一先生が、八重=阿波局説を提唱しているので要注目です。

阿波局は北条義時の子である3代目執権・北条泰時を産みますが、出自が謎とされています。

そもそも、そうでなければ、新垣結衣さんを配役した意味がないので、ヒロイン確定ではないかと思います。

とはいえ、源頼朝や北条氏と敵対した(頼朝に至っては殺されそうになります)平家家人・伊東祐親の娘を迎え入れることを、源頼朝や北条時政が許したとする設定はあり得るのか、という疑問はありますが…

後に義時の正妻となる姫の前(ドラマでは比奈)は比企氏の娘ですが、北条氏と敵対することで離縁しますので…

この点は脇に置いておき、北条義時の妻になるのでしょう。

そうだとすると感慨深いです。

北条泰時は北条政子のバックアップを受けて執権に就くわけですが、政子が八重の産んだ泰時を推すのですから。

政子と泰時の関係は政子が亡くなるまで良好だったようです。

得宗家最高の執権である泰時が、政子が亡くなってしまったら出家したいと漏らすほど、政子を頼りにしていました。

第13回「幼なじみの絆」の「紀行」

伊東市の最誓寺が義時の妻となった八重により、千鶴丸の供養のために建立されたと紹介されました。

最誓寺に伝わるのは、江間小四郎と伊東祐親の娘により建立されたというもののようで、この江間小四郎が義時と同一人物かは不明です。

第13回の紀行で紹介されたのは、豆塚神社(静岡県伊豆の国市)と最誓寺(静岡県伊東市)でした。

北条泰時…第15回「足固めの儀式」で誕生

寿永2(1183)年に生まれた北条泰時ですが、母の出自は不明です。一般的は身分が低いため記録されなかったと考えられています。

さて、建久3(1192)年に北条義時は姫の前を正妻に迎えますが、その1年ほど前から恋文を送っていたとされますので、相当な想いがあったようです。

泰時が生まれてから約8年後、八重との関係に変化が生じるのか、八重の身に何かが起きるのか…。

泰時の母は歴史の表舞台に登場していませんので、どの様に退場したかも分かっていません。

第15回の紀行で紹介されたのは、十二所果樹園(神奈川県鎌倉市)と上総介塔(神奈川県横浜市)でした。

コメディアン源頼朝とコメディエンヌ北条政子

特に源頼朝と北条政子の出会いの場面は、コントとしか言いようがありませんでした。源頼朝役の大泉洋さんも困惑していたようです。

頼朝と政子っていう歴史上のこの2人の出会いのシーンを『面白くする必要があるんでしょうか?』って、あらためて三谷さんに問いたいですけどね。今日の最後のシーンを撮っている間に、小栗君がやってきて『何やってるんですか?』って怒ってましたからね。『いや、これはあの…』みたいな。なんで我々が主演に怒られないといけないんだっていう。私たちは台本の通り、やっているわけだから。本当にね、三谷さんにはこれ以上、頼朝を面白くするのはやめてほしいと思いますね。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/10/kiji/20220110s00041000119000c.html

北条政子の本当の名は分かっていませんが、一般的には北条政子として知られておりますので、ドラマでも北条政子で登場します。

北条義時の兄姉妹は政子に限らず癖の強い人物として描かれ、これからどうなっていくのか楽しみです。

北条義時の兄姉妹の癖の強さもさりながら、源頼朝の癖の強さも相当なものでした。これは俳優・大泉洋さんの思い切りの良さが良い方向に出ました。

源頼朝が女装して逃げる場面、一瞬映る大泉洋さんは薄化粧が施され、紅までさしていました。

…薄化粧や紅はいらないでしょう…。

緊迫する場面です。

薄化粧する時間があれば、さっさと逃げればよいのに、何をしているのだか…。

第1回~第25回:源頼朝の側近時代(1175年~1199年)

源頼朝が北条家に身を寄せて挙兵するまで(1回~5回)

第1回「大いなる小競り合い」
北条時政と牧の方(=りく)

1回目から牧の方(=りく)を登場させたのは、後に起きる畠山重忠の乱と牧氏事件を丁寧に描くつもりなのでしょうか。

りくの配役が宮沢りえさんなので、それなりの登場回数はありそうです。「鎌倉殿の13人」の前半or中盤のクライマックスになるのでしょうか。

2回目でりくが時政に告げるセリフは牧氏事件の伏線になるのでしょう。時政のところに嫁いできたので、他の者に嫌われても気にしないというのですが…。

中世という時代の冷酷さ

1回目から戦慄する場面があります。三谷幸喜氏の脚本の振り幅の大きさに驚いたシーンです。

戦慄シーンは、源頼朝と伊東祐親の娘・八重との子・千鶴丸が暗殺される場面です。

セリフの中だけで消化しても良かったところを、河原で千鶴丸が来ていた衣類を持って佇む伊東祐親の下人・善児を、北条義時が目撃します。暗殺を視覚的にイメージさせる場面です。

残酷なのは、この場面があったからだけではありません。

北条義時は、それを横目に見ても驚きもせず、善児を問い詰めもせず、北条家の館に戻って冷静に報告します。

感情の起伏が現れないことにこそ、この場面の本当の怖さがあります。

コメディタッチな中に、いきなり冷酷なシーンの挿入は、これから権謀術数の世界を描いていくことを暗示しているように思えました。

第1回の紀行で紹介されたのは、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)と史跡 北条氏邸跡(静岡県伊豆の国市)でした。

第2回「佐殿の腹」…人たらしの源頼朝

2回目で、身内のいない源頼朝が悲願を達成するためには後ろ盾が必要なのだと義時に話します。

そのために、伊東の八重に近づき、伊東家がダメとなると、北条政子に近づいたというのです。

半ば呆れて話を聞いていた義時でしたが、源頼朝から、そなただけに言う、兄にも言ってはいけない、いずれ挙兵する、そなただけが頼りだ、と言われて、ははっ!と、人たらしの頼朝に完落ちしてしまう場面には苦笑いをしてしまいました。

秘密を共有した者同士の一体感が生まれた場面でもありました。

源頼朝は、人たらしでもあったようです。

坂東武者を一人一人呼んでは、そなただけが頼みだ、と殺し文句をささやいたようです。

そう言われた方は、他にも言っているのをわかりつつも、悪い気はしなかったでしょう。

第2回の紀行で紹介されたのは、音無神社(静岡県伊東市)と蛭ヶ島公園(静岡県伊豆の国市)でした。

第3回「挙兵は慎重に」
以仁王と源頼政の挙兵

第3回でいわゆる源平の合戦(治承・寿永の乱)の引き金となる治承三年政変が軽く語られます。

平清盛が後白河院派の貴族39人を解官し、後白河院を幽閉して実権を握ったクーデターです。

この後に安徳天皇即位すると、後白河法皇の皇子・以仁王が平家打倒の令旨を出します。

以仁王の蜂起自体は皇位継承に絡む私戦的な意味合いが強かったとされますが、これをきっかけに全国に反平氏・嫌平氏の感情が広まります。

皇位継承に絡むというのは、安徳天皇が即位することにより、皇統が高倉天皇の子孫に定まり、以仁王の即位が無くなることが確定するからです。

以仁王には力で皇統を変えるしか選択肢がありませんでした。

実際、以後の皇統は高倉天皇の子孫が継いでいきます。

院政については下記にまとめています。

以仁王とともに挙兵した源頼政は源三位(げんざんみ)の通称があります。鵺(ぬえ)退治でも知られる武将です。

墓所は京都府宇治市の平等院内にあります。

源頼政を祀っている神社として安井金比羅宮があります。

清和源氏の中でも摂津源氏の流れで、源満仲から数えて5代、源満仲の長子である源頼光から4代の子孫です。

源頼光は酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で知られる伝説の武人です。武門源氏の本流中の本流の家系です。

一方で、源頼朝は清和源氏の中でも河内源氏の流れで、源満仲から数えて7代、源満仲の三男である源頼信から6代の子孫です。

一般的には、河内源氏が武門源氏の本流とされます。

それは、源頼信が平忠常の乱を、次いで源頼義・源義家が前九年の役、義家が後三年の役を平定し、東国武士を結集して「武家の棟梁」と称される地位を確立したからとされます。

しかし、これは勝者による後世の後付けではないかと思います。

海音寺潮五郎氏も「武将列伝 源平篇」で、次のように述べています。

源頼朝が源氏の嫡男だとするむきがありますが、結果的にそうなっただけの話であり、源平盛衰記の諸本や吾妻鏡などは、頼朝が天下を取った後につくられたので、都合の良いように書かれている節があることを見逃してはいけない。

ドラマで源頼政の挙兵失敗を知った頼朝は、政子から挙兵しなくて良かったですねと言われ、政子を叱りつけます。

そして、仏像に手を合わせて頼政の弔うために念仏を唱えますが、口許が笑っていました…。

第3回の紀行で紹介されたのは、総本山園城寺(滋賀県大津市)でした。

源頼朝のステキな金縛り

さて、第3回で話題になったのは、源頼朝の夢枕に後白河法皇が立つ場面でした。第4回でも引き続きの場面がありました。第5回でも登場します。さすがにやり過ぎでしょう…

本作で脚本を担当している三谷幸喜氏の監督作品「ステキな金縛り」さながらの演出に沸き立ちました。法皇役の西田敏行さんが落ち武者姿であれば、まさに更科六兵衛でした。

後白河法皇が源頼朝の枕元に立った後に、三善康信からの文が源頼朝のもとへ届きます。

それによると、平清盛は以仁王の命旨を受け取った源氏すべてに対して、追討の兵を差し向けることに決めたというのです。

これを読んだ源頼朝は動揺します。しかし、この三善康信の知らせは早とちりだったとされます。この時、平家が追討していたのは頼朝でなく、頼政の残党のみでした。

しかしこれによって源頼朝は追い詰められ、後白河法皇の密旨も重なり挙兵を決意します。

密旨は文覚を介して届けられたという話もあるようです。

ドラマでは、以仁王の令旨から始まり、後白河法皇から平家討伐の密旨を受けたこと、三善康信の早とちりから源頼朝が追い詰められたと思いこんだという、複合的な理由を採用しています。

第4回「矢のゆくえ」
人たらし再びと所領安堵

第4回で源頼朝が人たらし本領を発揮します。

土肥実平が土地の安堵を心配していましたが、頼朝は顔をみせた実平の手を取り、次郎よう来てくれた、よう来てくれた、今まで黙っていたがわしが一番頼りにしているのは実はお前なのだ、とぬけぬけと言います。

嘘も誠心誠意つけば誠になるのだ、と言うことなのですが、これで味方を増やしていったのですから、魅力はあったのでしょう。

そして、源頼朝は所領安堵をすることでも、関東の武士を味方にしていきました。これは第5回で頼朝が自ら語りました。

第4回の紀行で紹介されたのは、三嶋大社(静岡県三島市)と香山寺(静岡県伊豆の国市)でした。

げに恐ろしきは北条政子

第4回の政子と北条義時の会話が怖かったです。

「ず~っといるのねえ」
「江間の土地ですから」
「もし佐殿とあの女がどうにかなるようなことがあったら、私、何をするか分かりませんからね」
「そう言われても」
「分かりませんからね」

笑いながら去って行く北条政子の姿に夜叉を感じました。

第5回「兄との約束」
石橋山の戦い

第5回は源頼朝が絶体絶命のピンチに陥る石橋山の戦いですが、このあと小田原周辺から、真鶴へ上手く逃げて、今の千葉県に逃げ込むわけです。

ここから源頼朝は勢いを増していくのですが、謎なのは何故勢力が回復できたかです。しかも、石橋山の戦いで敗れてから、わずか一月半ほどで鎌倉へ入ります。

家柄の良さだけで力のない源頼朝に何故従おうと思ったのでしょうか?

第5回の紀行で紹介されたのは、石橋山古戦場(神奈川県小田原市)と伊豆山神社(静岡県熱海市)でした。

独立気風の強い坂東武者

第5回で北条宗時が北条義時に語るセリフは、坂東武者の気風を上手く伝えてくれました。

「平家につくか、源氏につくかはさほど重要ではない。坂東武者の世をつくる。そのてっぺんに、北条がたつ。そのため、源氏の力がいるんだ。頼朝の力がどうしてもな。」

坂東には有力な武士団として坂東八平氏が、房総、秩父、相模に広がっていました。祖は平良文で、桓武平氏です。兄は伊勢平氏の流れをつくる平国香です。

同じ桓武平氏にも様々な流れがあり、中央で力を得た平清盛の伊勢平氏と坂東平氏とは別モノでした。

事実、源頼朝を支えた有力御家人となったのは坂東平氏でした。坂東平氏にとって、中央の伊勢平氏は、同じ桓武平氏とはいえ遠い存在だったので、それぞれの利害で動いたのでしょう。

源頼朝の勢力回復から、平家滅亡まで(6回〜18回)

第6回「悪い知らせ」

兄・北条三郎宗時が善児によって…

…さて、

安房への逃亡ルートは?

第5回で石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、第6回で、どういうルートだか分かりませんが、安房へ逃げます。

現在の小田原と熱海の間に位置する真鶴から出航したようですので、真鶴から安房までのルートが気になります。

石橋山の戦いが8月23日、安房に着いたのが8月29日とその間わずか1週間です。

真鶴から安房までドラマのような小舟を使ったのでしょうか。

だとすると、真鶴から安房までは結構な距離がありますので大変だったのではないかと思います。

先程から安房と書いていますが、安房は現在の千葉県の南のエリアです。

安房のどこに上陸したのかはわかっていないそうです。その為、漠然とした安房という書き方になります。

第6回の紀行で紹介されたのは、しとどの窟(神奈川県湯河原町)と源頼朝船出の浜(神奈川県真鶴町)でした。

中世の25里の距離感

第6回で散々歩かされる源頼朝ですが、その距離が25里でした。

一般的に習う一里の長さは約4キロですので、25里となると、ざっくり100キロになります。

すごい歩いたなと思いましたが、イヤイヤそれはないだろう、と思い、調べると、中世での一里の長さが異なっている事が分かりました。

一里は5町(≒545 m)から6町(≒655 m)だったようですので、25里はざっくり14〜16キロになります。

単位は時代や地域によって異なることを改めて知りました。いい勉強になります。

第7回「敵か、あるいは」
上総介広常と千葉常胤

第7回で上総介広常と千葉常胤が源頼朝に従うことになりましたが、このおかげで、短期間で鎌倉攻略を成し遂げる事ができます。

では、なぜ上総介広常と千葉常胤は源頼朝に従ったのでしょうか?

ドラマで上総介広常が、何の得があるのか、と聞きますが、その通りで、何の得があって味方したのかが分かりません。

後年、北畠顕家が関東で兵を集めようとした際に、報酬を求められたことを嘆きましたが、中世の武士は損得で動くのが当たり前の時代でしたので、学会では源頼朝に味方する理由を誰も明確に示す事ができていないようです。

ドラマで上総介広常が、源頼朝が襲われることを知りつつ、神に守られているなら難から逃れられるはず、と試して、源頼朝に神意を感じたというのが、本当なのかもしれません。

さて、上総介広常はどこを拠点としていたのか、よくは分かっていないようです。上総国の一宮である玉前神社(たまさきじんじゃ)の近くにあったとも言われます。玉前神社は外房にあります。

もし、その通りならば、内房を北上したとみられる源頼朝に合流するのに時間がかかったでしょう。

房総に山は無いものの、小高い丘陵が真ん中を通っているため、移動が意外と大変だからです。武蔵国のように台地の土地は移動が楽です。

第7回の紀行で紹介されたのは、玉前神社(千葉県一宮町)と千葉神社(千葉県千葉市)でした。

上総介広常と千葉常胤と殺生石と玉藻前伝説

さて、上総介広常と千葉常胤は殺生石九尾の狐で知られる玉藻前伝説にも関わっている様です。

奇しくも「鎌倉殿の13人」が放映されている2022年に殺生石は真っ二つに割れました。

割れたのは3月5日です。ドラマは序盤で、上総介広常も千葉常胤も登場している時期でした。

第8回「いざ、鎌倉」…鎌倉での源頼朝の拠点

第8回で鎌倉に入る源頼朝ですが、大蔵に屋敷を構えます。

現在の清泉小学校のあるあたりです。鶴岡八幡宮東側にあたり、頼朝の墓の南側です。

当初、父・源義朝が屋敷を構えていた亀ヶ谷に屋敷を構えるという話もあったようですが、狭い事と義朝を弔う堂宇があったことなどから、変更となったようです。

現在は鎌倉五山寿福寺が建てられています。総門を入ってから中門までの参道は、鎌倉で最も美しい石畳といわれているそうです。

第8回の紀行で紹介されたのは、寿福寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第9回「決戦前夜」…富士川の戦いの後に追撃しなかった源頼朝

第9回で平家の追討軍を富士川の戦いで破った源氏ですが、源頼朝は平家を追撃しませんでした。

ドラマでは兵糧が足りないからとか、領土を離れている間に敵に侵入される気配があるからなど、坂東武者の消極的な様子が描かれています。

一方で、京に軍を向かわせようとした源頼朝の前に、千葉常胤、上総広常、三浦義澄らが立ちはだかり、追撃を止めたとされます。

関東には源氏の佐竹氏を含めて頼朝に従わない者がいるので、それをまずは平らげるべきだと主張したのでした。

こうした状況について、本郷和人氏は「承久の乱 日本史のターニングポイント」で、関東の在地領主が源頼朝に求めたのは、東国での新しい秩序であり、在地領主の権利の保障を最優先に求めたと説明しています。

第9回の紀行で紹介されたのは、横割八幡宮(静岡県富士市)と八幡神社(静岡県清水町)でした。

第10回「根拠なき自信」
金砂城の戦い

第10回で金砂城の戦いが描かれました。源頼朝が関東を固めるために、同じ源氏でありながら平家についた常陸の佐竹氏を討った戦いです。

金砂城は今の西金砂山にあり、山頂は西側が100mも切れ落ちた断崖絶壁となっています。

ドラマでは源義経が山頂から背後をつく作戦を提案します。後の一ノ谷の合戦の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としと同じ作戦です。

金砂城の戦いの最中に和田義盛がヒヨドリを捕まえるというのんびりとした光景が描かれましたが、後になってヒヨドリではなくツグミであることが分かります。

ここで疑問なのは、敢えてツグミにしたのは、何かの伏線になるのでしょうか?

第10回の紀行で紹介されたのは、西金砂神社(茨城県常陸太田市)でした。

マウンティング合戦

第10回の亀(亀の前)の八重へのマウンティングは恐ろしかったです。

この後、亀の身に降りかかる災難を知っているだけに、見ていられませんでした。

第4回以来、久しぶりに恐ろしい北条政子が見られるかもしれません。

御簾での修行

第10回で政子が妹・実衣とともに御簾での所作を修行する場面がありました。

りくとその兄で公家の牧宗親により指導されていましたが、後に様々な場面で修行の成果が見られると思います。

後年、承久の乱の際に坂東武者を奮い立たせたとされる政子が演説では、皆の前で演説したかのように思われますが、実際は御簾の内側から人を介して話したようです。

この御簾での所作の修行の成果が最大限発揮される場面となります。

第11回「許されざる嘘」
江間を有する

江間と伊東を有することになった義時ですが、北条家の分家・江間氏の初代になり、北条時政が北条家の後継として義時を考えていなかったのではないかと考えられています。

北条時政も北条家の本家ではなかったのではないかという考えもあるようです。

北条義時を継ぐ北条泰時も長男ではありましたが、嫡男ではありませんでした。

ドラマでどの様に描かれるか楽しみですが、北条氏の三代は実力で北条家のトップになったのでした。

第11回の紀行で紹介されたのは、三十三間堂(京都府京都市)でした。

トリックスター善児

義時の兄・宗時を暗殺するなど、ドラマ初期から登場している暗殺者の善児は早い時期で姿を消すのだろうと思っていました。

ですが第11回で伊東父子を暗殺したところから、このドラマのトリックスターとして最後の方まで登場するのではないかと思うようになりました。

北条家の勢力拡大に欠かせない謀略はドラマの第11回ではまだ始まっていませんが、権力闘争が始まった瞬間から善児の活躍の場が登場します。

北条家の定石は敵を屠り、手を下した者の口を封じるです。口封じは誰かが行う必要があります。きっと善児は北条家の下人になるのでしょう。

第12回「亀の前事件」
江間小四郎義時

江間を領することになって、義時は江間小四郎と名乗るようになります。

実衣が、北条の後継はどうするのかと尋ねると、ダンマリする時政らです。

のちの波乱の伏線となります。

亀の前事件

亀の前事件ではどのような阿鼻叫喚が繰り広げられるのかと空恐ろしかったのですが、脚本の妙に感心しつつ笑いのある場面にホッとしました。

史実は史実として残しつつも、いい意味で期待を裏切ってくれました。

事件のあらましは次のとおりです。

  • 浮気を知った政子が牧宗親に亀の前の館を壊すよう頼む
  • それを知った頼朝は牧宗親を叱責して髻(もとどり)を切る
  • これに怒った北条時政が伊豆へ引き上げる
  • 残った義時が頼朝から褒められる

ドラマでは、源頼朝の異母弟・阿野全成が亀の存在を実衣に漏らし、黙っていられない実衣が源範頼に話し、それが北条時政とりくに伝わります。

りくはわざと亀の存在を北条政子に漏らし、後妻打ち(うわなりうち)での仕返しを提案、りくの兄・牧宗親が後妻打ちを行うことになりました。

北条義時は事情を隠して亀の屋敷の警護を源義経に頼みますが、そこに牧宗親がやってきて義経が事情を知ると、義経は慕っている政子のために亀の屋敷を徹底的に打ち壊します。

これに怒った源頼朝は牧宗親と源義経を呼びつけて、義経には謹慎、牧宗親は髻(もとどり)を切るという屈辱を与えます。

(この時代、髻(もとどり)は隠すのが当たり前で、人に見られることすら嫌っていたようです。ましてや、切られるというのは、ものすごい屈辱にあうということを意味します。)

この仕打ちにりくが北条時政を伴って源頼朝に詰め寄ります。そこに政子もやってきて、りくと政子が源頼朝を責めてたてると、源頼朝が逆ギレします。その様子を見ていた北条時政が源頼朝にブチギレてしまいます。

要所要所は史実に基づいているのですが、コメディさながらの展開に仕立て上げたのは、さすが三谷幸喜氏です。

第12回の紀行で紹介されたのは、正法寺(埼玉県東松山市)と妙本寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第14回「都の義仲」、第18回「壇ノ浦で舞った男」…大姫と義高

木曾義仲の嫡男・義高が人質として鎌倉にやってきますが、頼朝と政子の長女・大姫の婿として遇されました。

政略結婚ですが、大姫は義高を慕っていたようです。

それ故に源頼朝と源義仲の関係が破綻したあとに訪れる不幸は大姫を終生苦しめました。

第18回の紀行で紹介されたのは、赤間神宮(山口県下関市)でした。

第14回「都の義仲」…後鳥羽天皇即位

平家と共に安徳天皇が西国に向かい、天皇が不在となってしまったため、天皇家の家長である治天の君・後白河院が別の天皇をたてます。後鳥羽天皇です。のちに承久の乱で北条義時と対立します。

三種の神器は安徳天皇と共にあったため、神器なき即位でした。また、2年間ほど二人の天皇の即位期間が重複しました。

神器が無かったことは後鳥羽天皇にとってコンプレックだったと考えられており、その事が承久の乱の遠因にもなっていると考えられています。

第14回の紀行で紹介されたのは、俱利伽羅古戦場(富山県小矢部市)と俱利伽羅神社(石川県津幡町)でした。

第16回「伝説の幕開け」…逆落とし

ここで言う伝説とは、源義経のことです。

第10回の金砂城の戦いで伏線が張られた「逆落とし」ですが、第16回で伏線が回収されました。

一ノ谷の戦いで有名なのが鵯越(ひよどりごえ)の逆落としですが、逆落としが行われた場所には論争があるようです。

鵯越の他に、鉄拐山説がありますが、ドラマでは鉢伏山説を取っています。いずれも、鵯越が一ノ谷から遠すぎるので、違うのではないかというのが説の根拠になっているようです。

この場面で、畠山重忠の「馬を背負ってでも下りてみせます」 「末代までの語り草になりそうです」というセリフは良かったです。事実、有名な逸話として語り草になりました。

第16回の紀行で紹介されたのは、義仲寺(滋賀県大津市)でした。

第17回「助命と宿命」…河内源氏内の内ゲバ

打倒平家を掲げながら、河内源氏内での内ゲバが行われ、源義仲の子・義高、武田信義の子・一条忠頼が殺されました。

治承・寿永の乱は源氏対平家による戦いのほか、河内源氏内の主導権争いが同時並行的に行われた内乱でした。

源義高の殺害に、許嫁だった源頼朝の長女・大姫はショックを受け、その影響は亡くなるまで続いたようです。

第17回の紀行で紹介されたのは、清水八幡宮(埼玉県狭山市)と常楽寺(神奈川県鎌倉市)でした。

源頼朝が鎌倉殿になってから亡くなるまで(19回〜26回)

第19回「果たせぬ凱旋」…守護・地頭の設置

鎌倉入りを許されない源義経…。

…さて、

第19回では極めて重要なシーンが描かれました。

北条時政が上洛し、諸国荘公の兵糧米徴集と田地知行が認めさせたシーンです。

これは源行家と源義経の追討のための軍事体制を展開する用意で、臨時の措置と思われますが、後世に、このことが幕府の守護・地頭設置を朝廷が勅許したと解釈されます。

そのため、中世史研究者の間では1185年が鎌倉幕府成立時期として有力とされます。

第19回の紀行で紹介されたのは、若宮八幡宮(京都府京都市)と吉野山(奈良県吉野町)でした。

第20回「帰ってきた義経」…二つの意味

第20回のタイトルは二重の意味がありました。

一つは平泉に戻ってきたという、藤原秀衡目線の意味です。

もう一つは首だけが鎌倉に戻ってきたという、源頼朝目線の意味です。

第20回の紀行で紹介されたのは、高館義経堂(岩手県平泉町)と接待館遺跡(岩手県奥州市)でした。

第21回「仏の眼差し」…北条一家と運慶と水難と

北条一家が揃った場面で義時の弟・時連(のちの時房)が大姫の命を受けた格好で登場してきました。

北条時房は初代連署として知られますが、のちに北条泰時(=金剛)は叔父の時房をたてましたので両執権とも言われます。

さて、この回には鎌倉時代を代表する仏師の運慶が登場しました。

北条時政の依頼によって願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造るのですが、ドラマでは阿弥陀如来像だけが完成しているという設定でした。

このシーンの直前に八重の身に事故がおきるのですが、運慶の阿弥陀如来像が誰かに似てしまった、というセリフにはドキッとしました。

あとになって運慶の母に似ているということが分かるのですが、小四郎にはどのように見えたのでしょうか…。

第21回の紀行で紹介されたのは、願成就院(静岡県伊豆の国市)でした。

第22回「義時の生きる道」…姫の前登場

源頼朝が「大将軍」のうち「征夷大将軍」となった年、北条義時は姫の前を正妻に迎えますが、伝わるところでは、1〜2年ほど想いを寄せ続けていたされます。

しかし、比奈(=姫の前)との出会いは、伝わる内容とは異なって描かれました。

比奈は計算高い人物の様に思えます。そして何より比企能員の計算高い樣が描かれました。

第22回の紀行で紹介されたのは、東大寺(奈良県奈良市)と法住寺(京都府京都市)でした。

第23回「狩りと獲物」…巻き狩りと曽我兄弟の仇討ち

源頼家のお披露目となる富士の裾野での巻き狩りの最中に起きたのが、曽我兄弟の仇討ちでした。

ドラマでは曽我兄弟の仇討ちを新解釈で描きました。

兄弟の父親の仇である工藤祐経の殺害を意図したものではなく、本当の目的は源頼朝の暗殺で、頼朝と間違えて殺したのが工藤祐経だったというのです。

源頼朝の襲撃も意図していたという説はあり、黒幕もいたのではないかという説もありますが、ドラマでは曽我兄弟による単独犯として描かれました。

曽我兄弟は源頼朝から坂東を取り返すために襲撃しましたが、源頼朝と坂東武者との隙間風を窺わせるエピソードになりました。

第23回の紀行で紹介されたのは、頼朝の井戸の森(静岡県裾野市)と曽我の隠れ岩(静岡県富士宮市)でした。

第24回「変わらぬ人」…大姫と源範頼

大姫の病死を、弟・源範頼の呪詛によるものだと思い込んだ源頼朝は、梶原景時に源範頼の暗殺を命じました。実際に手を下したのは善児でした。

さて、この両名の亡くなった年ですが、一般的には同年ではないと考えられます。

大姫が亡くなったのは建久8年(1197年)とされます。

一方で、源範頼が建久4年(1193年)に修善寺に流された後については不明な点が多く、ドラマではその点をうまく使いました。

この回において、大姫が冠者殿(木曽義高)のことを聞こうと、和田義盛の妻となった巴御前を訪ねる場面が描かれました。

巴御前は存在が史料上確認できない人物のようですが、これもうまくドラマに組み入れていました。

第24回の紀行で紹介されたのは、源範頼の墓(静岡県伊豆市)でした。

第25回「天が望んだ男」、第26回「悲しむ前に」…源頼朝逝く

源頼朝の死に方について脚本の三谷幸喜氏はこだわりがあったようでしたので、どの様に描くのかが楽しみでした。

源頼朝の死に関しては「落馬」がキーワードになります。これまでは落馬を原因に死が描かれてきました。

今回描かれたのは、逆でした。

落馬が元で死に至ったのではなく、馬上で中風に襲われ、そののちに落馬したというものでした。

享年52歳、満51歳でした。合掌。

第25回の紀行で紹介されたのは、旧相模川橋脚(神奈川県茅ヶ崎市)でした。

第26回〜第38回:権力闘争時代(1199年~1204年)

源頼家が鎌倉殿を継いでから幽閉されるまで(26回~32回)

第26回「悲しむ前に」…北条家の分裂

源頼朝亡き後、北条家を主導したのは北条時政と思っていましたが、ドラマではいきなりの内部分裂となりました。

この回の見せ場は、源頼朝の髻から出てきた小さな観音像を、北条政子が北条義時に握らせ、北条義時が沈思するシーンでしょう。

政子「あなた、卑怯よ!わたくしにすべて押し付けて、自分だけ逃げるなんて。あなたに言われて腹を括ったんですから、少しは責任を持ちなさい!」

そう言われた義時は、政子に(姉上、ずるいですよ)とは言えず、己も覚悟を決めざるを得ませんでした。

鎌倉時代における北条家支配を確立した姉弟の鉄の結束が生まれた瞬間でした。

第26回の紀行で紹介されたのは、源頼朝の墓(神奈川県鎌倉市)でした。

第27回「鎌倉殿と十三人」…頼家と比企能員と北条時政と

御家人の中での主導争いが激化し始めるのが27回です。

そして、御家人の言うなりになるつもりのない源頼家は、十三人の合議制に五人の近習で対抗しようとします。ドラマでは5人ではなく、6人になっています。

「吾妻鏡」によると正治元年(1199)4月の時点で、5人とは小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成などとされ、4人だけしか名前が分かっていません。

同年(正治元年(1199))の7月には小笠原長経、比企宗員、和田朝盛、中野能成、細野四郎の5人になっています。

一方、ドラマでは6人衆として紹介され、小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成、北条時連、北条頼時でした。

北条頼時はのちの3代目執権・北条泰時です。北条時連はのちの初代連署・北条時房です。

北条泰時と北条時房は執権・連署として組む前に、六波羅探題の北方・南方としても組んでいますが、ドラマではこれよりもはるか前に二人が組んで政治に関与したことにしています。

第27回の紀行で紹介されたのは、永福寺跡(神奈川県鎌倉市)でした。

第28回「名刀の主」…嵌められる梶原景時

安達盛長の嫡男・安達景盛の妻ゆうを奪い取ろうとする源頼家にはあきれるばかりでしたが、この回ではさらに大きな出来事が起きました。

結城朝光が源頼家への不満を述べたことに、梶原景時が結城朝光への処分を求めるのですが、梶原景時を快く思っていない御家人66人の弾劾状によって排除されることになります。

66人には北条家が入っていないため、北条家の関与があったのかが不明な事件なのですが、ドラマでは、そう来たか、という筋立てにして、事件に北条家を関与させました。

これだけでも凄いと思うところですが、事件を仕掛けたのが三浦義村だったという2段構えの構成には唸らざるを得ませんでした。

さらに梶原景時の北条義時への置き土産が善児という、とんでもなく不穏な回にもなりました。

この回の紀行で建長寺に伝わる梶原景時の伝説が紹介されました。

第28回の紀行で紹介されたのは、梶原景時館址(神奈川県寒川町)と清見寺(静岡県静岡市)と建長寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第29回「ままならぬ玉」…北條頼時から北条泰時へ改名

北条頼時が泰時に改名した理由は分かっていません。

改名の時期が源頼朝の死の直後のため、頼朝の死が何らか関係しているものと考えられているようです。

ドラマでは源頼家と同じ「頼」が入っていて不遜だからということで、改名を命じられました。

北条家にしてみれば、とんでもないことです。というのは、烏帽子親である源頼朝から「頼」の1字を賜って頼時としているためです。名誉ある名ですので、北条家側では勝手に変えられません。

そのため、源頼家から言われたか、頼家に了解を得たのだろうとは思います。もしかしたら、ドラマのようなことがあったのかもしれません。

第29回の紀行で紹介されたのは、三浦義澄の墓(神奈川県横須賀市)でした。

第30回「全成の確率」…比企能員と源頼家

源頼家の乳母父である比企能員は、これから我が世の春と考えていましたが、源頼家を御しきれず、あまつさえ己の所領を削られる可能性が出てきたため、排除の方向へ気持ちが傾きます。

そのために阿野全成へ源頼家へ呪詛するようにけしかけるのですが、これが悲劇を生みます…。

そして、比企能員は、源頼家を排除して、代わりに据え置くのは外孫に当たる一幡という予定ですが、どうなることか…。

それより、北条義時が比企能員に正面切って宣戦布告しますが、事態の収拾を目論んでいたはずなのに、対立を決定的にしてしまうなんて、何してんですかぁ~?

ところで、このドラマにおける北条時政は、気が短いけど、一族・家族思いのおじちゃんで、権謀術数の人物ではない、という設定で終えるつもりのようです。

第30回の紀行で紹介されたのは、大六天の森(栃木県益子町)と大泉寺(静岡県沼津市)でした。

第31回「諦めの悪い男」…比企氏の乱

小御所合戦とも言われます。どちらかと言うと、こちらの名称の方が良いように思います。

事件は源頼家の病を契機とし、源頼家の息子の一幡の家督継承が決定的になったため、千幡(後の実朝)を推す北条時政がクーデターを起こしたものです。

この事件の不可思議なところは、比企能員がノコノコと北条時政邸に出向いたところです。これが故に謀殺されます。

ドラマのように比企能員は最低限の武装をしていたのでしょうか。

第31回の紀行で紹介されたのは、妙本寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第32回「災いの種」…源頼家vs北条家

息を吹き返した源頼家は比企一族と妻、嫡男の死亡を知り愕然とします。

この時に嫡男は死んでいなかったのですが、頼家には終始死んだものとして伝わります。

北条に怨みを募らせる頼家の怒りは不幸な結果を生み出します。

仁田忠常が結果的に犠牲となるのです。史実とは異なる最期でしたが、ドラマの設定上、この終わり方が正解だと思います。

ついには鎌倉殿の地位から追放されて修善寺に幽閉されます。

第32回の紀行で紹介されたのは、極楽寺(神奈川県鎌倉市)でした。

北条時政の執権時代(33回~38回)

第33回「修善寺」…源頼家の死

源頼家が暗殺される直接の要因はわかっていないようです。

ドラマでは幽閉された頼家が北条氏討伐の院宣を願い出たことから、北条氏が殺害を決断したという説を採りました。

北条氏討伐の院宣というのは、承久の乱の伏線です。

この回で、善児が退場しました。北条氏が謀略でのし上がっていく時期から、武力で御家人の頂点に立つ時代への転換を表現しているようにも思えます。

一方で、この回で源実朝が和歌の世界へ導かれるさまが描かれました。

また、北条時政が執権となりましたが、妻りくの言いなりで、徹底して伊豆出身のいいおじちゃんで終わりそうです。

第33回の紀行で紹介されたのは、源頼家の墓(静岡県伊豆市)でした。

第34回「理想の結婚」…北条政範と平賀朝雅とのえ

この回は北条政範と平賀朝雅とのえが話の中心でした。

北条政範は上洛してすぐに急死します。原因不明です。ドラマでは平賀朝雅の毒殺が示唆されましたが…。

この時点では北条家の跡取りは北条時政とりくの子・北条政範であった可能性が高いと考えられています。

その跡取りが急死したのですから、北条時政とりくの動揺は計り知れません。

この事が平賀朝雅の運命も大きく狂わせていきます。

さて、北条義時の三番目の妻としてのえが登場しました。一般的には伊賀の方で知られます。

悪女としても知られますが、ドラマではそのようなそぶりを見せずに終わるのかと思いきや、北条泰時がのえの裏の姿を見てしまって…。

後年、北条泰時と伊賀の方が対立することを考えると、この場面は重要な場面になります。

第34回の紀行で紹介されたのは、六角堂(頂法寺)(京都府京都市)と小野城跡(三重県亀山市)でした。

第35回「苦い盃」…母の恨み

逆恨みは怖ろしいという回でした。

自分達(北条時政とりく)で畠山重忠の地盤である武蔵国を横取りしようと画策していながら、息子・北条政範が死因不明の急死をとげると、りくは平賀朝雅による讒言を信じて、畠山重忠への恨みを募らせます。

そんなりくの姿を見てオロオロするおじいちゃん北条時政の姿は、悲劇を通り越して喜劇でした。

でも、もしかしたら畠山重忠が討たれる直接の動機はこうしたことだったのかもしれません。

人はいつも計算高生きているわけではないですから。

オロオロする北条時政に、北条時房がみっともないと叱り、兄・北条義時にたしなめられる場面がありましたが、北条時房は北条泰時と共に初期鎌倉幕府を支えた大政治家です。

第35回の紀行で紹介されたのは、畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市)と菅谷館跡(埼玉県嵐山町)でした。

第36回「武士の鑑」…畠山重忠の意地

鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠の最期を描いた回でした。

馬上での北条義時と畠山重忠の一騎打ちは、さながらヨーロッパ中世の槍試合を彷彿させ、ROCK YOU! [ロック・ユー]を思い出しながら見ていました。

そして、馬から転がり落ちた二人が殴り合いをはじまります。大河ドラマでは初めての演出かもしれません。

畠山重忠を謀反のかどで誅したのは無理があり、北条時政は御家人たちの信頼を失います。

次郎は決して逃げようとしなかった。
逃げるいわれがなかったからです。
所領に戻って兵を集めることもしなかった。
戦ういわれがなかったからです。
次郎がしたのは、ただ己の誇りを守ることのみ。

畠山重忠との戦いの中で、和田義盛が提案する側面からの攻撃は、見事に見破られますが、和田合戦の伏線のようにも見えました。

畠山重忠と和田義盛の(結果としての)水盃には感慨深いものがありました。

この二人で今生の別れをするとは…

第36回の紀行で紹介されたのは、畠山重忠公碑(神奈川県横浜市)でした。

第37回「オンベレブンビンバ」…牧氏の変の始まり

第21回「仏の眼差し」で大姫が唱えた幸運のまじないを北条時政が思い出そうとして口にしたのがオンベレブンビンバでした。

ネットではオンベレブンビンバがイタリア語で「ombre per un bimbo」もしくは「Ombre Banbinba」ではないかという説が出回りました。

直訳は「子供のための影」だそうです。

イタリア語説には違和感がありますが、まったく意味のない言葉をタイトルとすることは考えにくく、また、三谷幸喜氏がゴッドファーザーを意識して脚本を書いているため、イタリア語説が出回ったという次第のようです。

本当はオンタラクソワカだったというのが長澤まさみさんのナレーションで判明します。

北条時政が子供たちを集めて久々の家族団欒となりますが、最後の家族団欒となります。

牧氏の変が始まったのでした。

第37回の紀行で紹介されたのは、円覚寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第38回「時を継ぐ者」…牧氏の変の終わり

北条時政とりくが追い出されるのがこの回になります。

北条政範の急死から、畠山重忠の事件と、一連の騒動に決着がつきました。

りくが自ら黒幕であることを告白する場面は意外でした。

牧氏の変の終わりです。

歴史上、北条義時はこの時期まであまり表舞台に登場しませんが、いよいよ北条義時の時代がきます。

第38回の紀行で紹介されたのは、願成就院(静岡県伊豆の国市)でした。

第39回〜第48回:北条義時の時代(1205年~1224年)

源実朝が亡くなるまで(39回~45回)

第39回「穏やかな一日」…鎌倉殿の恋

「鎌倉に穏やかな日々が訪れてきました。本日は承元2年から建暦元年に至る4年間、この鎌倉で起こるさまざまな出来事を一日に凝縮してお送りいたします」で始まる第39回。

ナレーションの長澤まさみさんが登場したことで話題になりました。

さて、第21回「仏の眼差し」で八重に助けられてから北条泰時に仕え続けた鶴丸が平盛綱になりました。

孫に「平禅門の乱」で知られる平頼綱がいます。親子3代で北条家に仕える家系の誕生です。

北条泰時と鶴丸改め平盛綱の仲の良さを心穏やかざる目で見ていたのが鎌倉殿でした…。

この回で、源頼家の子・善哉が出家して公暁になります。昔は「くぎょう」で習いましたが、今は「こうぎょう」と読むようです。

さて、本格的に鎌倉の政権の中心に座った北条義時ですが、そんな北条家を面白く思わない御家人も多く、不穏な空気が漂います。

そうした中、北条義時とがっちりと手を組んでいるのが文官トップの大江広元です。

大江広元墓は北条義時の墓である法華堂跡の上にあります。

第39回の紀行で紹介されたのは、十国峠・源実朝の歌碑(静岡県熱海市)と鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)でした。

第40回「罠と罠」…和田合戦の勃発

和田合戦につながるきっかけとなった泉親衡の乱は建暦3年2月16日に起きました。

この逮捕者に和田義盛の子と甥がいました。子は赦免されますが、甥は北条義時が流罪にします。

和田義盛は三浦一族でしたが、この頃、和田と三浦の間で一族内の主導争いがあったという見方もあるようです。

義時は泰時世代のことを考えて和田一族を滅ぼすことを決めますが、戦を起こすには大義名分が必要です。

この回の冒頭で焼け落ちた内裏の修理を鎌倉に押し付けようとする上皇側の姿が描かれました。

これが承久の乱に繋がっていくというのは、時代考証を担当している坂井先生の説です。

今回の「大義名分」はのちの伏線になりそうです。

第40回の紀行で紹介されたのは、光念寺(神奈川県三浦市)と正行院(神奈川県横須賀市)でした。

第41回「義盛、お前に罪はない」…和田合戦

和田義盛の軍勢を押し返そうとする北条泰時の軍勢。

段葛を境に睨み合っていた両者でしたが、北条泰時の軍勢が和田義盛の軍勢を押し返していきました。

その時の陣形が古代ギリシアや古代ローマの軍、古代中国の軍がとった密集陣形にそっくりでした。

和田合戦後、源実朝が政を進めるにあたって、後鳥羽上皇の意見を聞くと宣言する場面があります。

それを聞いた北条義時の表情が冷たくなったのが印象的でした。

源実朝の暗殺の黒幕は北条義時であるとする説があります。このシーンを見ると、その説を採用するのでしょうか。

第41回の紀行で紹介されたのは、和田塚(神奈川県鎌倉市)と善栄寺(神奈川県小田原市)でした。

第42回「夢のゆくえ」…浮かばない船

この回では、源実朝が唐船を建造しました。

「吾妻鏡」に記載があることですが、建造の理由が判然としないようです。

陳和卿が「実朝の前世は中国の医王山の長老だった」と話したことから、実朝が自ら宋に渡り前世の医王山に参拝しようと考えたとされます。

さて、この回の主眼は、最後の方にあります。

源実朝が、養子を迎え入れて大御所として権力を握るつもりであることを宣言しました。

これに尼御台(北条政子)も同調しますが、北条家を権力から外そうとする宣言に北条義時は許せるわけがありません。

そうした中、6年ぶりに戻ってきたのが公暁でした。

動機がありすぎる北条義時。北条義時黒幕説を採用するのでしょうか?

第42回の紀行で紹介されたのは、船玉神社(神奈川県藤沢市)と実朝歌碑(神奈川県鎌倉市)でした。

第43回「資格と死角」…公暁の恨み

京から6年ぶりに戻ってきた公暁は八幡宮の別当になります。つまり、鶴岡八幡宮の責任者です。

ですが、公暁は僧侶です。僧侶が神社である鶴岡八幡宮の責任者?と思われるかもしれません。

鶴岡八幡宮は明治時代の廃仏毀釈まで、神仏習合の神宮寺でした。鶴岡八幡宮寺だったのです。

ですので、僧侶が事実上のトップになるのは不自然ではありませんでした。

鶴岡八幡宮の姿も今とはだいぶ異なっていたようです。

廃仏毀釈については、安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」が参考になります。

この回で、親王を次の鎌倉殿として迎えることになり、公暁が鎌倉殿になる芽は摘まれました。

公暁にどす黒い想いを抱かせた決定打は三浦義村による讒言でした。

三浦義村は、源頼家は北条によって殺され、鎌倉殿になった源実朝には鎌倉殿の資格がない、と言ったのです。

これにより公暁に怨念の炎が立ち上り、半年後の事件につながります。

第43回の紀行で紹介されたのは、明王院(神奈川県鎌倉市)でした。

第44回「審判の日」…鎌倉の主導権をめぐり入り乱れる思惑

源実朝の暗殺事件が起きた当日を2回に分けて描きます。

現役の将軍が暗殺されているにもかかわらず、○○事件や△△の乱のように、事件を象徴する固有名称がありません。不思議です。

この回では、主導権をめぐって入り乱れる各人の思惑が描かれました。

学説のどれかを採用するのだろうと思っていましたので、思惑が複雑に入り乱れる様が描かれるとは思っていませんでした。

鎌倉殿をめぐって様々な人間の思惑が交錯しました。

  • 北条の影響力を排除したい源実朝
  • 実朝への恨みを募らせる公暁。
  • 実質的な鎌倉のトップをめぐって、起死回生の逆転を狙う三浦義村
  • 執権の座を狙う源仲章
  • 三浦義村と源仲章の思惑を利用しながら阻止したい北条義時

当事者全ての思惑が事件にどのような影響を及ぼすのか、次回に持ち越しになりました。

第44回の紀行で紹介されたのは、覚園寺(神奈川県鎌倉市)でした。

第45回「八幡宮の階段」…源実朝の死

源実朝が公暁に殺されました。

この回の脚本については、2022年12月15日付けの読売新聞の記事が参考になります。

3代将軍・源実朝の暗殺事件は、今では私も含めたほとんどの歴史学者が公暁単独犯説をとっています。義時は実朝の意向を受けて親王将軍を迎え入れる体制を作っていたし、三浦義村はそもそも暗殺現場にいませんでした。2人のような賢い幕府有力者が将軍の暗殺に関わるとは、とても思えません。

しかし、少し前までは歴史小説家の永井路子さんが唱えた義村黒幕説が支持を集めていました。この説では義村は右大臣拝賀の儀式には出ずに自宅で兵を整えて機をうかがっていたとされていましたが、義村レベルの御家人が幕府の重要な儀式を勝手に休むことはあり得ない。義村は前年の「 直衣始のうしはじめ 」の際に身内でトラブルを起こしたため、自宅待機を命じられていたんです。これは私が唱えた新説で、義村黒幕説を否定する根拠のひとつになっています。

ドラマでは北条泰時が義村の屋敷を訪れて、前年の直衣始でのトラブルを理由に、実朝の命令だとして義村に自宅待機を告げていました。実際には泰時は義村邸を訪れていませんが、新説をああいう形で取り込んで、より緊迫感のある場面にしているんです。しかし、義村が公暁に「北条憎し」の感情をたきつけ、「実朝を殺せば将軍になれるかもしれない」とそそのかした可能性はあります。三谷さんは公暁単独犯説をとりながら従来説も取り込んで、義時も義村も暗殺を事前に知っていた、という筋書きにしたわけです。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20221212-OYT8T50105/

義時に間違われて殺された源仲章については、自業自得という気がしないでもないですが…。

これで敵対者を一掃した義時は鎌倉の頂点に立ちました。

しかし、すでに不穏な空気が漂っています。

北条義時は承久の乱後ほどなくして急死しましたので、以前から暗殺説が根強くあります。

今回、その説を採用するのではないかと思われるほど、関係者の義時暗殺の動機が描かれました。

義時と一蓮托生だったはずの政子は、2人の息子を殺され、孫までも殺され、政子は全てに絶望して自決を考えますが、自決を止めたは暗殺者のトウでした。

政子は義時に恨みがあり、トウは北条に恨みがあります。

義時の妻・のえも義時に対する恨みを募らせています。

息子・泰時も義時のやり方には反対の立場です。

そして盟友・三浦義村は義時暗殺の疑惑を持たれていることを知ります。

いずれの人物も義時を排除したいという動機があるのです。

第45回の紀行で紹介されたのは、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)と源実朝公御首塚(神奈川県秦野市)でした。

承久の乱とその後(46回〜48回)

第46回「将軍になった女」…実衣の野心

実衣(阿波局)が、子・阿野時元を鎌倉殿にするために画策するも、失敗に終わるというのが、この回の1つの柱になっていました。

もう1つの柱が、朝廷(後鳥羽上皇)と鎌倉(北条義時)との駆け引きです。

この回では、親王の下向は取りやめとなり、その代わり摂関家から出すということで手打ちにする場面が描かれました。

下向するのは三寅。のちの藤原頼経で、第4代征夷大将軍です。

そして、のえの野心が具体的に見えてきました。子の政村に家督を継がせたいと義時に迫りますがはねのけられました

第46回の紀行で紹介されたのは、多摩川浅間神社(東京都大田区)と雲林寺(神奈川県横浜市)と安養院(神奈川県鎌倉市)でした。

第47回「ある朝敵、ある演説」…承久の乱の原因

ドラマで承久の乱の原因として採用された大内裏焼失事件ですが、必ずしも学説の主流ではないようです。

この説を強く推しているのが、時代考証を担当されている坂井孝一先生です。

「承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱」に詳しく書かれています。

そして、同じく、ドラマでは後鳥羽上皇の院宣は、倒幕目的ではなかった説(=北条義時が敵)を採用しています。

こちらも坂井孝一先生が採っている立場です。

院宣については、倒幕目的ではなかった説と、倒幕目的だったとする説とで学説が分かれています。

承久の乱の原因についても、複数の学説が対立しており、必ずしもドラマで採用された説が主流というわけではないようです。

北条氏内部での主戦派と反主戦派の立場の描かれ方は興味深かったです。

北条義時が自分の首を差し出せば鎌倉が守られると考え、後鳥羽上皇に盾突くつもりがありませんでした。

一方で、北条泰時が後鳥羽上皇と一戦を交えようと主戦派の立場を採りました。

第47回の紀行で紹介されたのは、聖福寺(福岡県福岡市)と名超寺(滋賀県長浜市)でした。

第48回「報いの時」…最終回

「報い」という言葉は善悪のいずれの場合でも使われる言葉です。

この回で北条義時に訪れる「報い」は様々でした。

ハッピーエンドではありませんが、バッドエンドでもありません。

様々な「報い」の果てに訪れた最期は、全てを断ち切るかのように、北条義時の死でスパッと終わりました。

「完」の一字と闇の中の政子のすすり泣きが余韻を残すグランドフィナーレでした。

このドラマが北条家の家族ドラマであることを考えますと、いい終わりだったと思います。

最後のシーンは、アガサ・クリスティの作品にインスパイアされたそうで、「カーテン」か「鏡は横にひび割れて」を想起した方が多かったようです。

人物造形に影響を与えたゴッド・ファーザーⅢのマイケル・コルレオーネの様な死に様ではありませんでしたが、死の余韻は似たところがある様に感じます。

ファミリーを守るために、己が全ての責苦を背負い、地獄へ堕ちる覚悟をした、孤高の男達の哀しき最期です。

北条義時の意志は北条泰時に継がれ、その意志は文字化されます。

御成敗式目として文字化された意志は江戸時代まで引き継がれました。

北条義時に合掌。

2023年の大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康が登場する演出が話題を呼びました。

時代考証が語る脚本の凄さ

2022年12月15日付けの読売新聞のサイトに、時代考証を担当された坂井孝一先生が、学説と脚本の折り合いのつけ方について述べている記事が載りました。大変面白い記事でした。

『吾妻鏡』は研究者の間では「小説のようなもの」といわれるほど、いろいろなところで潤色が明らかになっています。三谷さんは『吾妻鏡』を精読していますが、その記述通りに脚本を書いてはいません。慈円が書いた『愚管抄』や、貴族の日記『明月記』などにあるエピソードも生かされています。

 考証会議で「今は否定されています」「こっちを使った方がいいですよ」という指摘をすると、三谷さんは積極的に新説を採用してくれます。ただ、その場合でも、従来説や一般に知られている俗説に配慮し、こういう考え方もある、昔から言われてきたことも生かすとこうなる、というふうに、脚本に取り込んでいくんです。

(中略)

源平合戦の一ノ谷の戦いでは、源義経の「 鵯越ひよどりごえ の 逆さか 落とし」が有名ですが、考証会議では「近年では崖を駆け下りたのは義経ではなく、多田行綱だったという説が有力だ」という指摘が出ました。でも、軍記物語には義経がやったと書いてあり、そう思っている視聴者も多いですよね。どうするのかと思ったら、後白河法皇に戦勝報告をする場面のセリフで、見事に折りあいをつけたんです。

 ドラマで義経は鵯越を下りませんが、法皇は義経の鵯越を称賛します。法皇との面会後に梶原景時は法皇の誤解を訂正すべきだと忠告するのですが、義経は「いいんだ。歴史はそうやって作られるんだ」と答えるんです。あれには時代考証みんなが驚きました。三谷さんならではの「すご技」ですよ。

源頼朝の征夷大将軍任官では、長澤まさみさんのナレーションを使っています。従来説では、頼朝は都から離れた東国の地で権力を行使する「征夷( 蝦夷えみし を征する)大将軍」になりたくてしょうがなかったのに、後白河法皇が死ぬまで許さなかったといわれてきました。しかし、2000年代初頭に新たな史料が発見されて、頼朝が望んだのは将軍(「 鎮守府ちんじゅふ 将軍」など)を超える「 大将軍たいしょうぐん 」であり、その上に冠する「征夷」にはこだわっていなかったことがわかりました。「征夷」「征東」「 惣官そうかん 」「上」の中から、最も縁起がいいからという理由で「征夷」を選んだのは朝廷だったのです。

 でも、頼朝が征夷大将軍を熱望していたと思っている視聴者もたくさんいます。そこで三谷さんは、頼朝と北条政子が征夷大将軍の任官を喜び合うシーンの直前に「法皇の死を待っていたかのように、頼朝は自らを大将軍とするよう朝廷に要求する。数ある将軍職の中で朝廷が任じたのは……」という長澤さんのナレーションを入れて、「征夷」でなく「大将軍」を喜んでいるんですよ、とさりげなく説明したんです。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20221212-OYT8T50105/
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