設定
舞台となる時代
舞台となる時代は室町時代です。
映画では鉄砲が出てきますが、石火矢と言っていましたので、鉄砲とは異なります。
ポルトガル人によって鉄砲が伝来したとされるのが1543(天文12)年ですが、石火矢であれば、それより前の可能性があります。
映画の中で国崩しという言葉が出てきますが、国崩しは通常大砲を指します。
映画に出てくるのは、鉄砲よりは大きく、大砲よりは小さいものです。
時代の特定を難しくしているのが、「大和との戦に敗れ五百十余年」というセリフです。
大和との戦いとは、大和朝廷と蝦夷との戦いを指していると思ったのですが、時代が合いません。
大和朝廷と蝦夷の戦いで有名なのはアテルイです。アテルイについては、高橋克彦氏の「火怨 北の耀星アテルイ」が面白いです。
アテルイが活躍したのは、774年から812年までの「三十八年戦争」「三十八年騒乱」と言われる時期です。
これを基準にして五百十余年となると、ざっくり1320年代ですので、鎌倉時代の末期になります。
時代が合いませんので、1000年前後で調べると天慶の出羽俘囚の乱が出てきました。
天慶の出羽俘囚の乱のことを指しているのであれば、938年からの起算になりますので、1450年前後になります。
将軍は足利義政の時代です。応仁・文明の乱の10年ほど前です。
エボシ御前
エボシ御前のモデルは「立烏帽子」で、「鈴鹿御前」としても知られます。
「鈴鹿御前」は馬場あき子「鬼の研究」の中でも記載があります。
鈴鹿山に鬼が棲むという伝説は相当古くからあり、坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼神を征した話が最も有名です。
しかもそれは鈴鹿御前とか立烏帽子と呼ばれた女賊であったとも伝えられています。
さらに、エボシは、タタラ場の女性たちと同じように身売りされたという過去があるという設定です。
海外に売られたエボシは、倭寇の頭目の妻になります。
倭寇は13世紀から16世紀にかけて、東アジアで活動した海賊です。
日本人が多かった14世紀前後の倭寇を前期倭寇と呼び、中国人が多かった16世紀前後の倭寇を後期倭寇と呼びます。
映画の舞台が1450年頃であれば、過渡期になるのでしょうか。
エボシは頭目の妻になり、頭角を表して、夫の頭目を殺し日本に戻ります。
この時に、金品と石火矢の技術を持ち込んだという設定です。
感想/コメント
共生
「風の谷のナウシカ」が西洋的な文明をモチーフにしているのだとすると、本作は日本を舞台にして同じようなテーマを扱っています。
人間と自然の関係、人間同士の争い・権力欲、自然との共生と近代化…。
これに加えて、差別というのも本作の大きなテーマに思えます。
本作には山民や芸能民などの遍歴民が登場します。タタラの民もそうした人々なのかもしれません。
その他にも、忘れられた民が登場します。たとえば主人公の一人アシタカ(アシタカヒコ)の蝦夷(えみし)。ヤマトに追われて北へと移り住んだ者たちの末裔。
彼らは北の方の村に住んでいます。おそらく東北を舞台にしていると思われます。そこから旅をはじめ、西へと行きます。
この西の国は、近畿あたりでしょうか。さらに西国の中国地方でしょうか。
映画は日本中世史・中世社会史の大家である網野善彦氏の研究成果をずいぶん参考にしたと言われています。網野善彦氏の研究は非農業民の研究で知られます。
それまで暗黙のうちに農業社会と考えられていた日本ですが、山民、海民、遍歴する人々、芸能民など、農業社会以外の世界が広がっていることを指摘しました。
代表的な著書としては「無縁・公界・楽」などがあります。
名言
「生きろ。そなたは美しい」(アシタカ)
アシタカは、タタラ場でサンとエボシの戦いを止め、サンを気絶させて連れ出しましたが、サンを担いでタタラ場を立ち去る前に、銃弾で負傷してしまいます。
サンが意識を取り戻したときに、ハッと身構えたサンがアシタカの首にナイフを突きつけた場面のセリフ。
「何故私の邪魔をした、死ぬ前に答えろ!」
「そなたを死なせたくなかった」
「死など怖いもんか。人間を追い払うなら命などいらぬ!」
「分かっている。最初に会ったときから。」
「余計な邪魔をして無駄死するのはお前のほうだ! その喉切り裂いて二度と無駄口たたけぬようにしてやる!」
「生きろ…」
「まだ言うか!人間の指図は受けぬ!」
「そなたは美しい。」
「黙れ小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか」(モロ)
アシタカが死の呪いによってうなされて目覚め、洞窟の外に出た時にモロと話をします。
「モロ、森と人とが争わずに済む道はないのか?本当にもう止められないのか?」
「人間どもが集まっている。彼奴らの火がじきにここへ届くだろう」
「サンをどうする気だ?あの子も道連れにするつもりか?」
「いかにも人間らしい手前勝手な考えだな!サンは我が一族の娘だ。森と生き、森が死ぬ時は共に滅びる」
「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」
「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げて寄越した赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ。お前にサンを救えるか?」
「分からぬ。だが共に生きることはできる」
「フハハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?」
「違う!それでは憎しみを増やすだけだ!」
「小僧、もうお前にできる事は何もない。お前はじきに痣に食い殺される身だ、夜明けと共にここを立ち去れ」
神々
シシ神(ディダラボッチ)
映画では、生命の授与と奪取を行う山の神で、新月に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返すとして描かれます。
ディダラボッチとは、ダイダラボッチのことで、日本の各地で伝承される巨人のことです。
宇都宮にある羽黒山神社も、そうした伝承の残る場所の一つです。大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがあります。
乙事主(おっことぬし)
乙事主(おっことぬし)は鎮西(九州)からシシ神の森を守るために海を越えてやって来た500歳を超える四本牙を持つ巨大な白い猪神。
馬場あき子「鬼の研究」によると、「ぬし」のつく「ぬし神」が衰退するにつれ、怨念や執着が形象化され、惨劇とともに説話の世界に息づくことになります。
「ぬし神」とは、日本書紀・古事記で語られる国津神。つまりは、大和朝廷が支配権を強めるよりも以前に存在していた土着の神々です。
「おっことぬし」も、こうした国津神を象徴的に表現したものとして捉えれば、国津神の没落の道と自然の破壊とかがクロスします。
例えば、一言主は葛城山の主神ですが、「雄略記」に天皇と対等に礼儀正しく応接した国津神として扱われていたのが、没落して、説話の世界で役行者小角によって情けない扱いをうけることになります。
裏設定としてモロと乙事主は昔いい仲だったのですが、100年前に別れたそうです。乙事主は500歳、モロは300歳という設定です。
宮崎駿関係アニメ(一部)
あらすじ/ストーリー/ネタバレ
突如として村に襲いかかる「タタリ神」。
エミシの若者アシタカは、村を救うために「タタリ神」に弓を向けるが、その中で呪いをかけらてしまう。
倒れたタタリ神からでてきたものは、鉛の塊だった。
鉛は、肉を切り裂き、酷い痛みと苦しみを与えたのだった。
「タタリ神」は西からやってきた。西で何かが起こっている。
アシタカは西方の地を目指して旅立った。
森を抜けたところにある村を大勢の武士が襲っていた。
農民を救うべく弓を放とうとするが、アシタカの腕がうごめく。そして、放たれた矢は武士の腕と首を奪った。とんでもない力が宿ったのだったが、呪いのアザが濃くなっていた。
さらに西の村でアシタカはジコ坊という僧侶に出逢う。
西の土地の話を聞いたアシタカはシシ神の森を目指す。
シシ神の森にたどり着いたアシタカは傷付いた山犬に駆け寄る少女を見た。
シシ神の森を抜け、アシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作る長エボシ御前とタタラの民だった。
それと対立するのは、森を守る山犬一族と山犬として生きる人間の少女サンであった。
アシタカは自分が呪われた理由を知る。
アシタカの呪いの原因であるタタリ神を生み出したのはエボシ御前だった。
「森と人、双方生きられる道は無いのか」
森を守ろうとするもののけたちと、もののけの長・シシ神を殺そうとする人間の壮絶な戦いが始まる。
映画情報(題名・監督・俳優など)
もののけ姫
(1997年)
監督:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
主題歌:米良美一
声の出演:
アシタカ/松田洋治
サン/カヤ/石田ゆり子
エボシ御前/田中裕子
ジコ坊/小林薫
甲六/西村雅彦
ゴンザ/上條恒彦
トキ/島本須美
山犬/渡辺哲
タタリ神(ナゴの守)/佐藤允
牛飼いの長/名古屋章
モロの君/美輪明宏
ヒイさま/森光子
乙事主/エミシの長老/森繁久彌
病者の長/飯沼彗
牛飼い/近藤芳正
牛飼い/使者/坂本あきら
牛飼い/斎藤志郎
牛飼い/菅原大吉
牛飼い/ジバシリ/冷泉公裕
病者/山本道子
エミシの少女/飯沼希歩
雑兵/石火矢衆/得丸伸二
雑兵/牛飼い/中村彰男
キヨ/香月弥生
タタラ踏み/塚本景子
タタラ踏み/杉浦一恵
タタラ踏み/山本郁子
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