山本みなみ「史伝 北条義時」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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山本みなみ氏は鎌倉幕府や北条氏を専門とする研究者です。本書では数々の学説を紹介し、自身の研究成果を交えながら、北条義時像を浮かび上がらせています。久々に新たな視野を感じることができる一冊でした。

北条義時は源実朝の暗殺事件の黒幕と考えられたり、権力を簒奪した人物として考えられたり、上皇を配流するなど、ダークな人物として捉えられることが多かったですが、本書では一貫して北条義時を幕府の保護者として捉え、向けられる眼差しは温かいものです。

従来の北条氏研究は、北条氏の台頭を自家の権力確立につとめた結果として集約するが、第一に幕府政治の安定を優先し、そのなかで自らの権力確立につとめたとみるべきである。本書では、北条義時を「幕府の保護者」として評価する荻野氏の視角を継承したい。

山本みなみ「史伝 北条義時」p7

そして、エピローグで北条義時の性格を述べている個所が興味深いです。

人間的な面白みには欠けるかもしれない。義時個人の私生活や性格を窺わせるエピソードが皆無に等しいほど残っていないのは、逆に彼が真面目な人間であったことを裏付ける。というわけで、義時を一言で表せば、「真面目で有能な政治家」といったところに落ち着こうか。

山本みなみ「史伝 北条義時」p293

一番驚いたのは、鎌倉の材木座地区に浅い海があったという事です。頼朝が鎌倉に入った時代にも浅い海があり、交通の要衝だったことも鎌倉を選んだ理由だったといいます。

現在の鎌倉からは想像ができないのですが、こうした過去の地形を考慮することも大切である事再認識しました。

また、源実朝が天然痘に罹って、三年ほど行事に出られず、その間、義時が単なる代行者として行事を務め、自己顕示をしたわけではないという指摘は興味深かったです。

北条義時が活躍した時代については下記にまとめています。

  1. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  2. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)

北条義時は2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公です。

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第1章 頼朝との出会い

北条義時は北条時政の二男として長寛元(1163)年に生まれました。

北条時政は伊豆国の在庁官と務める人物でした。母は伊東祐親の娘とみられますが、史料がまったくみえません。北条義時には兄・宗時、姉・政子がおり、生母も同じと考えられています。

弟には一回り離れた時房がおり、妹には源頼朝の異母弟・阿野全成と婚姻する阿波局がいます。他には時政と牧の方との間の子がおりました。

幼名を江間小四郎といい、北条氏の庶流江間氏の当主として目されていました。(いつ、江間姓を名乗るようになったのかは本書に書かれていません。

北条氏とは

北条氏は出自が謎に包まれている部分が多かったのですが、近年の新史料の紹介もあり分かるようになってきています。

北条氏は北条時政の祖父・時家から始まります。時家は伊勢平氏庶流の出身で北条介の婿になったとみえることから、伊豆に土着して北条氏が成立します。

北条介の一族は平直方の子孫と想定され、熱海に進出を遂げ、勢力を伸ばして伊豆の在庁官人の地位を得て、ここに時家が婿として入り、北条氏を名乗るようになります。時家は都で活動していた京武者で、北条氏に婿入りします。

時政以前に北条氏が分派していないのは、北条氏が北条時政の祖父・時家に始まるため、伊豆への土着が新しく、京の事情にも明るい、新しい武士の家だったからです。

北条氏が京都との関係が深かったことを示すのが、時政が平清盛の継母・池禅尼の姪を後妻に迎えていることです。北条氏が京武者的な一族であり、牧氏との家格が釣り合っていたからこそ、婚姻が成立したと考えられます。牧の方とのあいだに生まれた娘たちが、貴族に嫁いでいることも注目されます。

伊豆は知行国主・吉田光房>国守・吉田信方のちに吉田経房>在庁官人北条氏という体制でした。

吾妻鏡が北条氏を在庁官人であることを強調するよりも平直方の子孫であることを強調したのは、直方が源頼義(=源義家の父)を迎えたことによって鎌倉が源氏のゆかりの地になり、同じ直方の子孫である北条氏との縁が古からあることが重要だったからです。

源頼朝の挙兵に東国武士が従った理由

源頼朝が流人生活を送っていた期間の大半は伊豆は知行国主・源頼政>国守・源仲綱>在庁官人として北条時政が勤めていました。

しかし、治承三年政変を期に、平清盛を頂点とする武家政権が樹立され、知行国主が交代します。この結果、坂東諸国にも目代として平家家人が派遣されます。それまで院や院近臣と結んでいた在地武士は特権を失い、平家家人の圧力を受けます。相模の三浦氏や、上総国の上総広常などがそうです。

政変の翌年に伊豆の知行国主である源頼政と国守・源仲綱が敗死することで知行国主が平清盛の義弟・平時忠になり、伊豆守が平時兼になり、平家家人の目代として山木兼隆が派遣されます。平家家人の伊東祐親が大きな力を得て、国内の支配にあたります。

源頼政に仕えていた北条氏や工藤氏は特権を失い、ここに北条氏が源頼朝の挙兵に味方した最大の理由があります。

源頼朝が挙兵したのは、以仁王の令旨だけでなく、平家による頼朝追討の動きや後白河の密旨、知行国主の交代による北条氏の危機があり、平家家人による圧迫は平家に不満を持つ坂東武士が味方することが予想されていたからでした。

源頼朝が安房を目指した理由

源頼朝は挙兵して山木兼隆を討伐しますが、すぐに石橋山の戦いで敗戦します。その後、すぐさま安房を目指します。これは敗戦の結果ではなく、当初からの予定であったと見たほうが良いです。

理由は、源頼朝が千葉氏、上総氏といった房総半島の武士を頼りにしていたこと、安房には河内源氏の所領があり、在地の武士・安西景益の支援が期待されること、頼朝に呼応していた三浦氏も安房を目指していたこと、そして、安房の知行国主が伊豆を長く知行していた吉田経房であったことでした。安房の知行国主が平家一門ではなく、院近臣の吉田経房であったからこそでした。

それゆえに安房を目指したのでした。

源頼朝と北条時政は挙兵後の計画を綿密に練っており、中央の情勢を把握していたのでした。

安房に上陸した源頼朝一行に千葉常胤、上総広常が合流します。野口実氏の研究により、上総広常は当初から源頼朝の味方についていたことが明らかになっています。上総広常も知行国主の交代によって平家の圧力に苦しんでいました。

鎌倉を拠点に選んだ源頼朝

源頼朝らは鎌倉に入り拠点とします。鎌倉は辺鄙な場所ではなく、交通の便が良い交通の要衝でした。現在の鎌倉からは想像がつきませんが、海岸線は現在よりも内陸にあり、材木座地区には浅い海(ラグーン)が入り込んでいて滑川に通じ、鎌倉駅あたりに物資を集積する津があったと考えられます。ラグーンが完全に埋め立てられるのは、明治初期になってからでした。

頼朝の時代にもラグーンが存在していました。

富士川合戦と東国経営

源頼朝挙兵の報せを受けると、平清盛は追討軍を派遣します。

富士川合戦では、追討軍と頼朝・甲斐源氏連合軍が衝突します。

追討軍は、平家の精強ですが少数の家人と、強制的に動員された「かり武者」の構成でした。

前哨戦の鉢田合戦での追討軍の壊滅や、頼朝軍の膨れ具合、坂東の平家家人の敗北などがあり、追討軍の士気は下がっており、合戦準備中に「かり武者」の一部が源氏に降伏しました。

富士川合戦での反乱軍の主力は甲斐源氏でした。

合戦後、甲斐源氏は木曾義仲と連携して上洛を目指します。

源頼朝も上洛を目論みますが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らの反対に会い、東国経営に専念することきなります。

この後に源義経との対面を果たします。源頼朝は藤原秀衡の支援を受けている義経を優遇し、父子の義である猶子関係を結びます。

これにより場合によっては義経が頼朝の後継者になり得る立場を得ました。この時、頼朝と政子の間には男子が生まれていませんでした。

平清盛が世を去ると、後白河院救済を名目に立ち上がった源頼朝は目標を失い、東国経営に専念します。

頼朝時とっての課題は、反乱軍の立場を脱して、本位に復することでした。後白河院に平家との和平案を提示して、後白河院は院宣によって挙兵したと捉え、貴族も清盛の暴走を止めるために挙兵したと考えるようになります。

平家滅亡まで

源義仲(木曾義仲)は入京直後から孤立を深めます。配下が乱暴狼藉を働いたからです。

また、皇位選定権に介入したため、後白河院と溝が深まります。

安徳天皇が平家と共に西国へ赴き、都に天皇が不在となりましたので、次の天皇の選定は後白河院が決めるべきところですが、義仲が介入し、以仁王の遺児北陸宮の践祚を訴えます。北陸宮は義仲が匿っていた男児でした。

これに後白河院は激怒します。最終的には後白河院が決めた尊成親王(後鳥羽天皇)になりましたが、義仲との関係は修復不可能になります。

義仲が京を離れると後白河院は頼朝に上洛を促します。源頼朝の官位は復され、東海道・東山道諸国の国衙指揮権が認められ、事実上の東国支配が認められます。

しかし宣旨の効力は諸国に新たな受領が補任されるまでの一時的なものであり、北陸道の支配権は直前になって認められませんでした

これは義仲が京に戻ってきて反発したためで、頼朝は義仲追討のために義経を送ります。

義仲が討死したのち、平家追討へ移り、壇ノ浦の合戦、平家の滅亡と続きます。

北条義時は源範頼に従って平家と戦いました。

壇ノ浦の合戦で三種の神器のうち宝剣を失った後鳥羽天皇は歴代の天皇に比してコンプレックスがあったとされます。このコンプレックスが承久の乱の遠因になります。

源頼朝と北条義時

北条義時は源頼朝に目をかけられていました。家子専一(家人の筆頭)に選ばれたり、亀の前騒動では父・時政に従わず頼朝の下に残った事など、評価されていたことをうかがわせる出来事があります

亀の前騒動では牧の方の兄大岡時親の髻が切られますが、当時の人々にとって頭髪を他人に見られることは恥ずべきことで、髻は成人男性の証でもありましたので、髻を切るということは最大の恥辱を与えることでした。

文治5(1189)年の奥州合戦に北条義時は従軍します。時政とともに頼朝率いる大手軍に従軍したのです。

義時の戦功は見えませんが、頼朝の近くで護衛をしていたと思われます。頼朝の死後の内紛において義時が大将軍をつとめて勝利を収めたものもあり、決して戦闘を不得手にしていたわけではありません。

建久元(1190)年、源頼朝の上洛とともに随兵の一人として北条義時も京に上ります。

源頼朝が北条義時に期待したこと

建久3(1192)年、源頼朝が征夷大将軍に任じられた年に姫の前を正妻に迎えます。比企朝宗の娘でした。この婚姻には源頼朝が関与しました。

二人の間には三人の子が生まれ、長男は朝時です。名越朝時とも呼ばれます。次男は重時で、後に六波羅探題北方になり、鎌倉に極楽寺を開きました。

源頼朝が婚姻に関与したのは、比企と北条両氏の連携による幕府運営を期待していたと考えられます。

義時には朝時よりも前に男子がいました。後の三代執権の泰時です。その母・阿波局の出自は分かっていません。

泰時は元服の際に源頼朝が烏帽子親になり、一字を拝領して頼時と名乗りますが、頼朝の死後は泰時に改名します。理由は不明です。

建久6(1195)年、源頼朝は政子、大姫、頼家らを伴って2度目の上洛を果たします。顔ぶれは前回と同じで、義時の名も見えます。

上洛の目的は、大姫の入内工作の布石と後継者頼家のお披露目などでした。頼朝は後鳥羽天皇の後宮に大姫を入内させ、王家との婚姻関係を結ぶことを望んでいました。北条にとっても重要な意味を持ちました。

しかし大姫が亡くなってしまい、入内は実現しませんでした。次いで次女の入内工作を進めますが、頼朝が世を去って実現しませんでした。

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第2章 武家政権の中枢に

建久10(1199)年、源頼朝が急逝します。病死ですが、詳細は不明です。この死の影響は大きく、鎌倉で有力御家人による内紛が相次ぎます。

源頼朝の持つ家長権は妻政子に移りました。

源頼家の親裁権

二代目の源頼家は、頼家を廃位し実朝を擁立する北条氏が、その行動を正当化するために「吾妻鏡」で頼家を暗君として描く必要があった考えられています。

頼家は将軍独裁政治を目指し、頼朝の政治方針を引き継ぐ意思を持っていましたが、御家人を統率して政治を主導するだけの力はありませんでした。

そこですぐに創設されたのが十三人の合議制です。

従来は頼家の親裁権が停止され、独裁政治に掣肘が加えられたことから、合議制を本質とする執権政治の嚆矢として高く評価されてきました。

しかし近年の研究では、審議の最終判断は頼家が行っていたことから、頼家への訴訟取次を十三人に限定しただけで、合議制が敷かれていたわけではないことが指摘されています。若い頼家の権力を補完するための措置だったといえます。

史料上、十三人全員が合議したことを示す記述はなく、体制はすぐに解体したと考えられます。

頼家の親裁権は停止されておらず、比企氏や梶原氏の意向を重視しつつ独裁政治を主導したといえます。

北条氏と比企氏

正治元(1199)年、頼朝の死後最初の内紛が梶原景時が排斥された事件です。梶原景時は頼家を支える無二の重臣でしたが、事態を収拾できませんでした。

上横手雅敬氏の見解によると、北条氏による裏面工作の可能性を指摘し、北条氏による有力御家人排斥の初例と位置付けました。上横手氏は頼家派(比企氏や梶原氏)と実朝派(北条氏)との対立があった指摘します。

伊藤邦彦氏によると梶原景時の排斥事件には比企能員の関与が指摘されています。

梶原景時は侍所の別当をつとめ、頼家の乳母夫でもありました。頼家を育ててきた比企氏にとっては大きな脅威となります。

頼家の独裁に対する御家人の不満は、独裁を支える梶原景時への攻撃という形で現れました。

梶原氏の追討には比企氏の関係者と北条氏の関係者が派遣されました。

比企氏は阿野全成・頼全父子の誅殺事件にも関与がうかがわれます。

比企氏の乱(小御所合戦)

比企氏の乱は源頼家の病を契機とする事件です。

勃発は頼家の息子の一幡の家督継承が決定的になったため、千幡(後の実朝)を推す北条時政がクーデターを起こしたのに始まります。

比企氏の乱では、比企氏一族を追討し、一幡乳母夫の新田一族を殺害し、逃げ延びた一幡を殺めるという三段階を踏んでいます。この全てに義時は深く関与していました。

この比企氏の乱は「宝暦間記」に小御所合戦と書かれています。

源実朝の擁立に伴って頼家とその派閥の粛清が進められました。頼家は時政の命を受けた義時が下知しました。

北条時政の専制

時政による専制が始まりますが、その専制は不安定でした。

実朝が征夷大将軍に就任します。鎌倉殿の征夷大将軍への就任は、源頼朝がこだわっていたわけではないことが明らかになりました。櫻井陽子氏によると、頼朝は「大将軍」への就任を申請し、朝廷では4つの候補を挙げて審議して征夷大将軍に決まりました。

元久元(1204)年、源実朝と坊門信清の娘との婚姻が進められます。公武融和と幕府を取り込みたい御鳥羽院と、京都と繋がりを持ちたい北条時政と牧の方の利害が一致したためです。

正妻が決まると鎌倉から時政と牧の方の息子である北条政範が派遣されますが、入京してすぐに急逝します。

このことは時政夫婦の政治的立場に重大な影響を与えます。

建仁3(1203)年、源実朝の元服が執り行われます。翌日には政所始が行われ、北条時政は大江広元と並んで政所別当になり、実質的な支配権を掌握します。

時政専制の特徴は単署下知状の発生です。実朝の後見人の立場が可能にしたと考えられますが、政所別当に就くことで政治運営に関与しました。

実朝の親裁権は停止され、実朝の政治的効力は時政の隠棲まで下ります

北条時政専制の終焉

時政の専制は二年で終焉を迎えます。契機は二つあり、畠山重忠の追討を巡って御家人の信頼を失ったこと、実朝を廃して平賀朝雅を擁立しようとした牧氏の変です。

いわゆる畠山重忠の乱は武蔵国を巡る北条氏と畠山氏の対立があったと考えられています。きっかけとされるのは畠山重保と平賀朝雅の口論とされますが、それ以前から両氏の対立は周知されていました。

畠山重忠の追討には北条義時と北条時房が反対しますが、親権が絶対である以上、最終的には二人は命に従います。

しかしすぐに畠山重忠の無実が周知の事実となり、北条氏へ非難の目が向けられ、揺り戻しが起こります。

北条政子と義時の意向を受けた三浦義村らによって、は畠山父子を鎌倉に誘い出した時政と牧の方の娘婿の稲毛重成が誅殺され、非難の矛先を時政夫婦に向けました。

ここにきて北条親子の対立が決定的となります。そして時政は牧の方と企図していた朝雅の擁立に踏み切ります。

平賀朝雅は源氏一門で、門様として特別な扱いを受けてきました。生まれは寿永元(1182)年で、源頼家と同じ年生まれの乳兄弟です。頼朝の猶子になり、鎌倉殿になりうる資格を有していました。

時政専制が始まると朝雅は京都守護として上洛し、御鳥羽院の信任を得ていました。

こうしたなか、時政と牧の方は源実朝を暗殺しようとします。

実朝を擁する政子と義時にとって、源頼朝の猶子であり、御鳥羽院とに関係を深める平賀朝雅は政治的脅威でした。実朝暗殺の陰謀が明らかになった以上、時政隠退させ、朝雅を討つしかありませんでした。

元久2(1205)年、時政は出家を余儀なくされ、専制に幕が降ります。朝雅の処罰も迅速に行われました。以後、政子と義時の姉が主導する政治体制が開始します。

北条氏の嫡子

武家社会における嫡流(家督継承)は親の意向基づき、状況によって変動することも少なくありませんでした。兄弟間の関係も対等に近く、嫡宗家は未確定であったため、兄弟間の争いもしばしば発生しました。

伊豆時代の北条家の嫡子は長男の宗時と考えられます。義時江間を領有して江間小四郎名乗っていました。しかし石橋山合戦で宗時が命を落とすと、嫡子の選定に迫られます。

義時の表記が江間姓と北条姓が混在していること、義時の子・泰時の青年期が江間姓であることから、北条氏の嫡子は義時ではなく、細川重男氏・本郷和人氏は義時の二男・朝時、岡田清一氏は弟の時房を嫡子に想定します。

牧の方の子・政範が一時嫡子として遇されていましたが、若くして世を去り、義時の嫡子の座が決定的となります。

執権とは

北条時政の専制政治は執権政治と呼ばれますが、執権の語源は政所の執権別当(複数いる政所別当の上首)です。

北条氏が執権職を世襲し固定化すると、政所の長官のみならず、将軍の後見役の意味合いが強くなります。

執権と将軍の関係

時政が隠退すると義時が執権に就任します。実朝・義時の時代の御恩の授給は、義時単独署判の下知状は発給されませんでした。単独で発給するようになるのは三寅(九条頼経)が下向してからでした。このことは義時が制度的には実朝の家司にすぎないことを意味しましたが、立場は執権と評価されました。

義時と政子が最も優先したのは、頼朝が遺した武家政権を安定的に運営することでした。

従来の幕府研究は北条氏の行動を権力掌握に結び付け、将軍と北条氏の対立関係を自明としてきましたが、権力の淵源は将軍の外戚として後見人をつとめることにありましたので、北条氏が将軍に就くことはあり得ず、将軍とは基本的に協調関係にありました。

将軍との対立が表面化するのは鎌倉中期の北条時頼の時代になってからです。

源実朝の健康問題

実朝は承元3(1209)年に親裁を開始したと考えられています。この時期の実朝の身体的問題は、あまり取り上げられてきませんでした。

承元2(1208)年に天然痘に罹り、かなり重症であったことが分かっています。注目すべきは、承元2(1208)年から建暦元(1211)年までの約3年間は、幕府祭祀に参加しないという特殊な状況が生じました。代わりに参詣していたのが、義時と大江広元・親広父子でした。

義時がたびたび奉幣使をつとめたのは、参詣できない実朝の代理をつとめた結果であり、自身の存在を際立たせるためではありませんでした。

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第3章 執権政治確立への途

和田合戦

北条時政の隠退後に義時の最も有力な対抗者になったのが和田義盛でした。

和田義盛の心残りは上総介への就任でしたが、願いは叶いませんでした。こうしたなか計画されていたのが、頼家の遺児を擁立して義時を殺害する策謀でした。泉親衡の乱です。

和田義盛は一族の謀反を受けて実朝に謁して子息の処罰を免れましたが、厳重な処置も行われました。

甥の胤長を束縛し軍奉行に渡し、胤長の屋地を義時が拝領します。これで衝突は不可避なものとなります。

また、御所で義盛粛清の密儀を耳にしたとされ、和田義盛は子息たちに担ぎ上げられて蜂起します。

和田合戦では和田義盛の同族である三浦義村が寝返り、勝利へ貢献しました。三浦一族では三浦義村と和田義盛が族長の座をめぐって競合していました。

義村は北条義時とは母方を通じた従兄弟同士でした。また、実朝を護り支える立場であったとも考えられます。

しかし和田合戦における三浦義村の寝返りはかなりの衝撃を与えました。

合戦はどちらが将軍の身柄を確保するのかという戦いでもありました。結果、義時が実朝の身柄を手中収め、幕府軍の正当性を得ることができます。

合戦後、義時は侍所別当に就任し、政所別当と合わせて、幕府内で抜きんでた立場を手に入れます。

合戦により、北条氏は幕府指導者としての立場を確立し、官途の推挙に関する制度が変更されました。官途推挙権は将軍権力の一つでしたが、義時はメスを入れます。幕府は家督を通じて御家人を統制しようとし、実朝は重臣の和田義盛を失っただけでなく、個々の御家人との関係を築くことが困難になり、義時へ依存せざるを得なくなります。

建保4(1216)年に政所別当が増員されます。五味文彦氏坂井孝一氏は実朝の将軍権力の拡大とみましたが、増加された別当の顔ぶれを見ると名誉職的な者もおり、北条氏への不満を和らげようとしたのではないかと考えられます。

源実朝暗殺と吾妻鏡の記載について

承久元(1219)年に源実朝が頼家の遺児・公暁に殺されます。

これに関して義時黒幕説がありますが、平泉隆房氏は、幕府の不用心に対する批判をかわすために義時不在を吾妻鏡では偽作したのではないかと指摘しました。

実朝の死後、多くの御家人が出家しましたが、義時の一族からは出家者が出なかったとの批判があったり、将軍暗殺を許した幕府首脳陣への批判が公家側にはあり、吾妻鏡の偽作を余儀なくされたのではないかとも推測されます。

つまり義時が黒幕ではなく、実朝の暗殺を防ぎきれなかった義時を弁護するために吾妻鏡は脚色を加えたと考えられます。

幕府と朝廷の関係

実朝を失った幕府と朝廷の関係に変化が生じることは目に見えていたため、北条義時と大江広元は最も信頼できる伊賀光季と大江親広を京都守護として派遣しました。

後鳥羽上皇は皇子の下向を認めず、あえて無理難題を押し付けました。義時は院の命令を拒否します。

幕府は摂関家の九条道家の子息から候補者を選出することを求め、選ばれたのが三寅でした。三寅は義時邸に入り、義時が後見をつとめます。義時は時政同様に単署下知状を発給するようになります

源頼茂の挙兵と承久の乱のきっかけ

実朝の死をきっかけに、様々な事件が起こります。源頼茂の挙兵もその一つでした。

頼茂は実朝の死を受け、自分が次の将軍になるべきと考えていましたが、三寅が後継者に決まったことで、大内裏で謀反の心を起こします。

頼茂は追討の院宣を受け、在京の武士に攻められ、火を放って自害しますが、その火が内裏を焼き、由緒ある宝物も焼失します。

後鳥羽の命により内裏の再建が開始されますが、全国的に非協力的な状況が続き、思うように進みませんでした。

坂井孝一氏はこの一連の動きが承久の乱の直接的な動機と考えました。

佐々木紀一氏は頼茂の謀叛を承久の乱に至る公武対立の図式では捉えず、後鳥羽院政下における権力闘争の一つとして捉えています。

山本みなみ氏は上記を踏まえ、武士たちを手中に収めることができないことに憤りを感じて、後鳥羽院は追討を決意したと考えます。

承久の乱

承久3(1221)年、北条義時の追討を命じる官宣旨と院宣を下します。官宣旨では義時追討の遂行が命じられましたが、集結先が明記されていませんでした。鎌倉攻めの主戦力としては東国武士を想定し、幕府内の対立を誘発すれば自滅すると考えていたのでした。

院宣は幕府の中枢を担う8名の御家人に充てられましたが、御家人の手に渡る前に義時は院宣を回収しました。後鳥羽院の挙兵は首脳部に大きな動揺を与えます。

従来、承久の乱の後鳥羽院の目的は、討幕と解釈されてきましたが、近年では義時個人の追討であるという説が有力視されています。しかし、義時追討は戦略上の問題ととらえる見方もあり、定説をみません。

山本みなみ氏は、義時追討と討幕に大きな差は認めれず、後鳥羽院は実朝の死により幕府が存続の危機に見舞われている状況をよく知り、遠からず瓦解すると見て、皇子の下向を拒否し、三寅の下向を不満に思っていたことから、北条氏が牛耳る幕府の存続を望んでおらず、幕府の崩壊、すなわち討幕を目指していた可能性もあると考えています。

承久の乱の戦後処理

承久の乱は未曽有の大乱でしたが、戦後処理は幕府主導のもと粛々と行われました。

幕府は武力によって朝廷を打ち負かし、治天の君の特権である皇位継承に介入し、院の配流を実施しました。京方についた武士や貴族の所領没収も進められ、新しく地頭が設置されました。東国武士が西国へ移住する契機になります。

京には六波羅探題が置かれ、有事の場合には幕府の許可をとらなくてよいほどの強い権限が与えられます。この探題を担ったのが、北条泰時と時房でした。

北条義時の死因

承久の乱から3年後に北条義時は62年の生涯を終えます。死因は脚気によるものでした。

現在では、毒殺説が有力視されていますが、山本みなみ氏新史料から連日の猛暑のなか脚の痛みと食欲不振により床に伏しがちで、前日に容体が悪化し死に至ったと考えています。

義時の死は、北条氏内部に大きな影響を与えます。北条泰時は時房とともに政子のもとにおもむき、執権を継ぎました。ですが、伊賀の方は娘婿の一条実雅を将軍に擁立し、北条政村を執権として幕政の実権を握ろうとしていました。伊賀氏事件は政子の差配によって事なきを得ますが、弟の名越朝時は泰時の執権就任に憤っていたと想像されます。

終章 後代の義時像

近年、北条義時が武内宿禰の生まれ変わりという関東武内宿禰伝説が注目されています。北条泰時と北条時頼は、ぞれぞれ菩薩の化身とされましたが、義時だけは日本神話の武内宿禰の生まれ変わりとされたのです。

武家政権確立者の実像―エピローグ

義時の死後、政子は義時の権威化を図り、泰時を次の執権に据えることに尽力します。2020年に泰時と政子の関係性を窺わせる重要な史料である藤原定家の日記「明月記」の断簡が見つかり、中世史研究者を驚かせました。嘉禄元(1225)年7月1日から3日までのわずか3日分の記録です。

泰時は政子が逝去したら遁世すると言いますが、政子に天下を鎮守することが恩に報いることであると出家を諫めたという噂を定家が聞いたというものでした。

記録からは泰時がどれほど政子を頼りにしていたかが窺えます。

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