山本博文「歴史をつかむ技法」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

この記事は約30分で読めます。


山本博文氏は日本近世史、江戸時代を専門としている歴史学者です。

中学もしくは高校で、本書のように、歴史全体を俯瞰し、何を押さえ、何を捉えるべきかを教えてから時代別の詳細を教えたほうが良いように思いました。

これは何も歴史学などの人文系科目だけでなく、自然科学科目についても同様のことが言えると思います。

「はじめに」で書かれていますが、物事を理解するためには「知識」とそれを活かす「思考方法」の両輪が必要です。

歴史を学ぶにあたっても技法と言えるだけの正しい思考の方法があり、理性的で、論理に沿った、基礎的な思考方法があります。

本書では歴史を学ぶ上で必要な「考え方」や「見方」を紹介するのを目的としています。

終章に描かれている「歴史理論の変遷」はとても興味深いです。この部分は教養として高校か大学で教えるのが適していると思います。

「歴史理論の変遷」はマルクス主義史観から始まります。

1.マルクス主義史観:歴史には基本法則があり、その法則に基づいて発展していくという見方です。

日本では戦前の皇国史観への反動もあり、一世風靡した考えでした。

これに従えば、歴史には一定の法則があるということになります。歴史には法則があるのだから、それを学びたいと考えるのなら、この史観が適しているのかもしれません。

マルクスの規定した発展段階は、原始社会→古代社会→封建制社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会という一直線のものでした。

とても分かりやすいことも一世を風靡した理由だと思われます。ソ連が崩壊してしばらくは影響が残っていた考えのように思います。

2.従属理論:1960年代にドイツの経済学者アンドレ・グンダー・フランクらが提唱した理論です。

アフリカなどが低開発地域のままであるのは、彼ら自身に原因があるのではなく、支配する先進国に原因があり、第三世界の資本主義化も先進国の経済発展に従属する形において行われると考えます。

国や地域の歴史を個別にみるのではなく、先進国と第三世界を関係するものとしてとらえる考え方です。

3.世界システム論:従属理論を発展させたもので、アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインが提唱しました。

一つの国、民族の枠組みを超えた広域的な分業体制を世界システムと呼びました。

世界には複数の世界システムがあり、世界を巨視的な見方で捉える考え方です。

現在の学習指導要領はこの世界システム論の影響を受けています。

4.アナール学派:1929年にフランスのマルク・ウロックとリュシアン・フェーブルが刊行した雑誌「アナール」を中心に展開された歴史学の革新運動で、それまで政治史中心だった研究に対して、「社会史」を対置しました。

重ねて書かれている内容があります。歴史を学ぶにあたっては、常に念頭に置くべき重要な視座だと思います。

歴史を見る上で重要なことは、現代からの目で見ると無謀と思われることや、あまりに空想的と思われることも、当時にあっては真面目に考えられていた、という視点を忘れてはならないことです。現代的視点で過去を断罪するのではなく、当時の人々の視線から歴史的事象を理解しようとする姿勢が重要なのです。

山本博文「歴史をつかむ技法」p203

前にも記したように、私たちはついつい、現代の常識で歴史を見てしまいがちですが、時代ごとに違う常識、違うルールがあるものなのです。

山本博文「歴史をつかむ技法」p243

序章 歴史を学んだ実感がない?

歴史に限らずものを学ぶにあたっては、多少アバウトでも、同じ物事を複数の視点から繰り返し見返すことが大事です。

パズルのように個々のパーツを組み立てるのではなく、油絵を描くときのように、デッサンをして少しずつ色を重ねていく感じです。

さて、著者は、歴史が掴みにくい原因には歴史用語にも問題があるのではないかと言います。

例えば「律令国家」です。

「律令国家」とは、8世紀まで文章になった成文の法律がなく、慣習によって行われていた政治から、法律で政治制度を規定し(=令)、法律に基づいて刑罰を与える(=律)ようになった法治国家を指す用語です。

古代の人々が使った言葉ではなく、歴史学者が定義した用語です。

第一章 歴史のとらえ方

1 歴史用語の基礎知識

歴史用語は二つに分類されます。一つは同時代の言葉、もう一つは歴史を理解するために別の時代の言葉を借りたり、造語したりしたものです。

「幕府」が武家政権を指すようになったのは、江戸時代末期になってからで、歴史学ではこの言葉を借りて武家政権の統治機構を指すようになりました。

そのため鎌倉幕府成立時には武家政権を指す「幕府」という言葉は無いので、何をもって武家政権の成立とすべきなのかという問題のなり、歴史学者の解釈になります。

そのため解釈によって1185年だったり、1192年だったりします。

鎌倉時代において、武家政権を指す言葉としては、朝廷は「関東」とか「武家」と呼んでおり、幕府側の武士は「鎌倉殿」と言っていました。室町時代には「室町殿」になります。

将軍も「公方と呼ばれることが多く、江戸時代には幕府を「公儀」と呼ぶのが通例でした。

ただし統一的に捉える用語が必要になるため、幕府という用語が使われるようになります。

「藩」も同時代ではほとんど使われません、一般的には「家中」と言い、薩摩藩なら島津家家中と呼ばれました。

歴史学で「藩」という用語が使われるようになると、「幕藩体制」「幕藩制国家」という歴史用語が派生します。

「天皇」は「すめらみこと」と読みますが、いつの頃からか「てんのう」と呼ばれるようになります。それ以前は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。

天皇の呼称にはいくつかあり、多くは「諡号」でしたが、やがて「追号」が一般的になります。

江戸時代において「老中」を指す言葉は、老中、御老中、年寄、御年寄、加判の列様々でした。

歴史的な概念を指す用語でも同様で、「鎖国」という用語も江戸時代前期から使われた言葉ではなく、一般的に使われるようになるのは明治時代になってからです。

2 歴史学の考え方

歴史は科学です。単純な史実を求めるにしても、根拠をあげ、一定の手続きに従って分析が求められます。

そして大多数の研究者間でほぼ一致できる見解が通説として認められるようになります。

例えば本能寺の変の黒幕説を唱える研究者はごくごく少数です。黒幕説の根拠史料の信頼性が低かったり、解釈の誤りがあったり、黒幕説を明確に否定する論考もかなり提出されています。

歴史は科学的思考の積み重ねであり、常に「史料」が重んじられ、史料の信憑性・信頼性を検討する「史料批判」を行います。

この史料批判の例として「明智光秀軍法書」「甲陽軍鑑」が信頼性が低い資料として挙げられています。

時代の観念も重要です。

例えば赤穂事件では「喧嘩両成敗」が武士社会の常識であったことを知らないと、事件そのものを理解することができません。

事件を喧嘩と見れば、浅野内匠頭が切腹なら吉良上野介も切腹のはずです。そのため、浅野家の家臣は片落ちと考え、それを放置することは赤穂藩の恥となるため吉良邸討ち入りが行われます。

大石内蔵助は吉良上野介でなくとも、吉良家当主となった左兵衛を討ってもいいのではないかと言いますが、喧嘩両成敗を実現させて面子を立てれば良いので、相手は上野介でなくとも良いのです。

歴史には時代固有のルールがあり、現代の感覚で見てはいけません。

3 歴史イメージと歴史小説

時代考証を楽しむ、時代小説や時代劇のように史実とフィクションが容易に区別できる場合は良いですが、歴史学との境目が素人目に分かりにくいと問題が複雑になります。

時代小説は物語がフィクションで展開するのに対して、歴史小説は実在した人物を主に用いて、ほぼ史実に即したストーリーが描かれます。

その結果、歴史研究者の歴史叙述とほとんど変わらない歴史小説もあります。

ここで例に挙げられているのが山岡荘八氏や山本周五郎氏で、際たる作家として司馬遼太郎氏が書かれています。本書では取り上げられませんでしたが、塩野七生氏もそうです。

それでは歴史小説と歴史学の違いは何でしょうか。

歴史研究では決定的に重要なのは史料批判です。史料価値の無いもの、低いものは扱うわけいきませんが、歴史小説では新しい解釈に沿った小説を創作するために、そうした史料を扱うことは意味のあることです。

例えば「武功夜話」が発見されたときには、作家は創作意欲が刺激され、新しい信長像を描いた小説がいくつも書かれましたが、歴史研究者の目からは確かな史料として歴史研究に使ってよいものには思えなかったそうです。

このように歴史学者は史料に基づいて時代像を描きますが、史料が無ければ推測することすら禁欲的に抑制することが多いのです。

一方で歴史小説ではフィクションを交えることが許され、むしろそれが当り前です。

ですから、小説の中に書かれた話が「史実」であるかどうかを議論することは無意味になります。

歴史研究と歴史小説は、そもそも目的も手段も違うものなのだとしか言いようがありません。

第二章 歴史の法則と時代区分

1 歴史に法則はあるのか

人類の進歩や歴史の法則性そのものに根本的な疑問が提示されるようになっています。

原始以来、人類は進歩してきたと考えていることに対して、歴史学者の中には懐疑的な人も少なくありません。

歴史は無数の偶発事件の積み重ねであるという考えもあり、この立場では歴史には法則性はないということになります。

歴史に法則性があるように見えるのは、偶発的な事件の積み重ねに、人がストーリーを与えるからです。

一方で歴史には筋道があるという考えもあります。自然に法則があることを前提としていますが、自然法則と同様の法則があると考えるものです。

両者は一見すると正反対のように見えますが、根底には共通点があります。

それはマルクス主義史観(唯物史観)への批判です。

著者は法則とは違うが、それぞれの時代に一貫した動因や要因があると考えています。それを理解できれば、歴史の流れが自然なものとして腑に落ちてくると考えているのです。

2 「時代」とは何か――日本史の場合

日本の歴史区分には西欧の歴史学にない「近世」があります。江戸時代が該当します。

近代でないのは明らかな一方で、中世の鎌倉・室町時代とはずいぶん違った社会になっているからです。

西欧の歴史学に沿う形で中世を前期封建制、近世を後期封建制と分けることもあります。

最近では西欧でも近世の時代区分が市民権を得るようになってきました。

マルクス主義史観による時代区分を日本に適用するのは無理がありましたので、現在では半ば便宜的なものになっています。

しかし、古代、中世、近世、近代という区分が意味がないわけではなく、研究者の間ではおおよその共通認識があります。

「原始」旧石器時代から始まり縄文時代・弥生時代までを指します。

「古墳時代」3世紀後半から西日本を中心に大規模な前方後円墳が作られます。特に大和地方に大きな政治権力があった考えられ、「ヤマト政権」と呼びます。

8世紀後半に律令制によって成立する奈良県にあたる地域の行政区分名を「大和」というため、カタカナの「ヤマト」で区別しています。

「飛鳥時代」ヤマト政権が飛鳥に王宮を建設します。この時代から日本書紀や古事記などの文献によって日本の歴史が描かれるようになります。

「奈良時代」平城京が建設され、律令が国家や社会の基礎に据えられ律令国家を作り上げます。

「平安時代」律令国家が変質していく時代です。律令制度が残っているため、平安時代中期の摂関政治の時代までは古代に分類するのが一般的です。それに続くのが王朝国家です

平安時代後期は摂関政治の時代と区分して院政期と呼びます。上皇が自由に政治を行うようになり摂関の地位が低下します。また武士が台頭する時代のため中世とする説が有力です。

中世は「武士の時代」で、院政期に台頭し始め、鎌倉時代、室町時代、戦国時代に至ります。

武士の主従関係を封建制度と呼びますが、それによって中世を封建時代ということもあります。

近世は織田信長、豊臣秀吉をへて徳川家康から始まる江戸時代を指します。この時代も封建制度が続きます。

そのため中世を前期封建制、近世を後期封建制と呼ぶのが歴史学では一般的です。

明治維新から太平洋戦争までが近代、それより後が現代です。

より細かい時代区分

日本史においては政権の所在地によって時代の名称にするのが一般的です。

古代

飛鳥時代から始まります。都を遷すことがありましたので、政権所在地を厳密に適用しているわけではありません。

奈良時代。都は平城京に移ります。この時代にも都は移りました。

奈良時代は74年しかありませんが、区分する意味があります。

奈良時代は天武天皇に連なる血筋の皇子・皇女が天皇になりました。政争の中で天武天皇の血筋がほぼ根絶やしになると、長岡京へ遷都され、平安京へ遷都します。大きな政治の変化ということができます。

平安時代。平安京に都が置かれ、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年を指します。

初期は天皇が政治を行うこともありましたが、中期以降は藤原氏の摂関政治が展開されます。平安王朝や王朝文化とも言われ日本史において王朝といえば平安時代を指すのが一般的です。後期は院政の時代になります。

学問上の概念である律令国家変質の時代も王朝国家と言います。

中世

鎌倉時代。鎌倉幕府以降、武家政権の所在地で時代区分するようになります。もっとも鎌倉時代は幕府の支配領域は全国にまで及んでおらず、朝廷を無視することはできませんでした。

中世史研究者の間では1185年が鎌倉幕府成立時期として有力です。平氏が滅亡したからではなく、源頼朝が源義経らの探索を理由に、全国の守護・地頭の任命権などを朝廷に認めさせたためです。

守護・地頭は律令国家に置かれた地方の支配者である国司の権限を受け継ぐ存在です。それを任命できるということは、国家機構の一部を代行する地歩を築いた証と言えます。

北条氏が世襲した執権は、政所別当だった北条時政が称したもので、立場は将軍家の家司(家政を司る者)に過ぎませんでした。

そのため実力があっても将軍になる資格があるとは周囲の武士が認めず、北条氏もそう認識していたはずです。

南北朝時代。1392年に南北朝が合体しますが、徳川光圀が編纂させた「大日本史」(弘道館収蔵)では南朝を正当な王朝とし、近代まで影響を与えます。現在の天皇家は北朝の系統です。

室町時代。南北朝の合体以後を指すのが通例です。足利義満の頃は権勢を誇りましたが、基本的には弱体でした。

戦国時代。地方権力を担った有力武将が活躍した時代です。

近世以降

安土桃山時代。研究者は織豊期、政権を織豊政権と呼ぶのが通例です。

江戸時代。1603年に徳川家康が将軍になったことを起点とします。

近代は明治政府の樹立から太平洋戦争の敗北までです。

現代はそれ以降になります。

3 文化史の時代区分

古代の文化

飛鳥文化。7世紀前半の文化で、蘇我氏や王族によって広められた仏教中心の文化です。

白鳳文化。7世紀後半から8世紀初頭の文化です。天武天皇、持統天皇の時代で遣唐使によって伝えられた唐初期の文化の影響を受けています。律令国家が成立した時代でもありました。律令国家成立期の文化が白鳳文化です。

天平文化。奈良時代=天平文化です。仏教が重んじられた時代で、東大寺の大仏、国分寺・国分尼寺が建立され、唐から鑑真を招来します。古事記や日本書紀が完成した時代でした。

平安時代は三つに分かれます。

弘仁・貞観文化。9世紀末まで。漢文学の発展、密教の伝来などがあり、唐風文化とも言います。大まかには、藤原氏が他氏を排斥して権力を握るまでの時代です。

国風文化。遣唐使が中止されたから日本独自の文化が生まれます。10〜11世紀の文化を指します。摂関政治の時代に対応しています。かな文字の発達と女流文学が盛んになります。大まかには、藤原氏が天皇家の外戚になって摂政・関白として政治を行う時代です。

中世の文化

院政期の文化。武士が台頭し、地方社会や庶民生活への関心が反映された文化です。

鎌倉文化。新しい仏教教派があらわれ、仏教美術にも大きな変化がありました。合戦の連続の中で、人々の間に無常観が生まれ、宗教に救いを求めた時代でした。神道もこの時期に伊勢神道が形成されます。

南北朝文化。鎌倉時代末期に伝えられた朱子学の大義名分論が影響を与えました。

北山文化。足利義満の時代の文化を指します。水墨画や建築、庭園様式、能など現在の伝統文化の基礎ができました。

東山文化。足利義政の時代の文化を指します。茶道や生花などの基礎が作られます。

近世の文化

桃山文化。象徴は豪華華麗な安土城と大坂城です。

江戸時代は三つに分かれます。

寛永文化。徳川家光の頃の文化です。京都を中心にした公家文化です。代表するのが日光東照宮、俵屋宗達の風神雷神図屏風(建仁寺)です。儒学が普及しました。

元禄文化。徳川綱吉の頃の文化です。上方の武士や上層商人が担いました。井原西鶴や近松門左衛門が活躍します。徳川光圀による大日本史の編纂が始まります。

元禄文化化政文化の間。本居宣長による国学の発達や、杉田玄白らによる蘭学の発達がありました。

化政文化。徳川家斉の頃の文化です。江戸の庶民による文化です。滝沢馬琴、鈴木春信、葛飾北斎などが活躍し、蘭学から洋学へ発展しました。

近代の文化

明治の文化。欧米文化を手本にした日本なりの西洋文化が特徴です。

大正期から昭和初期は市民文化、大衆文化と呼ばれました。

第三章 日本史を動かした「血筋」

1 ヤマト朝廷とは

邪馬台国の論争は日本の王権の成立時期を巡る論争です。現時点では決め手がないため、研究者はあまり論争に関与していません。

ヤマト政権の成立については埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘から、ワカタケル大王の名が判明し、関東から九州まで及ぶ政権があったことがほぼ判明しました。

また、倭の五王として知られる「武」がワカタケル大王こと雄略天皇と考えられています。

古事記や日本書紀、中国の歴史書と発掘の成果が加わって、雄略天皇が実在の人物であるとともに、支配が北関東から九州に及んでいたことが分かったのです。

日本の歴史を考える際、ヤマト政権の成立と大王家に連なる血筋を見ていくことが重要です。

聖徳太子の時代から南北朝時代までは大王家(天皇家)の後継者をめぐる争いによって動いてきた面が大きいと見られるからです。

後継者争いを考える時、「皇統」における「直系」を理解すると古代史の理解が進みます。

直系とは父子で皇統を継承していくことで、古代においては天皇の血筋を引くだけでなく、母が皇女であることを指します。

この視点で系図を見ると、天皇と皇女の間に生まれた皇子以外は、天皇になったとしても一代限りの中継ぎの位置付けしか与えられず、子供に皇位を引き継げなかったことが見えるそうです。

皇統は天皇家の中の純粋な血統により再生産されるべきものだったというわけです。

この考えは古代史の専門家の間で完全に同意されているわけではないようですが、この説に従うと、古代史の政争の多くが説明できます。

蘇我氏によって崇峻天皇が殺された後、厩戸皇子(聖徳太子)が天皇にならなかった、なれなかった問題も理解できるというのです。

厩戸皇子は用明天皇の皇子で、母は欽明天皇の皇女穴穂部でしたが、用明天皇の母は蘇我稲目の娘堅塩媛でしたので、用明天皇が傍系の天皇と見られたいたことは間違いありません。

厩戸皇子のライバルには直系である敏達天皇と王女広姫の皇子押坂彦人大兄皇子がいました。

そうであるからこそ、押坂彦人即位を防ぐため、伯母で敏達天皇の皇后だった推古天皇を中継ぎとして即位し、その下で厩戸は政治を行い、次代の天皇として豪族に認められることを狙ったということになります。

しかし厩戸皇子は皇太子のまま没し、天皇になることはありませんでした。

推古天皇の死後、押坂彦人の子が即位して舒明天皇となります。 舒明天皇の死後は皇后が即位して皇極天皇になりますが、厩戸皇子の子である山背大兄王の即位を阻止するためでした。

舒明天皇の子、中大兄皇子が天智天皇となるまで抗争が続きます。

  • 山背大兄王が蘇我氏に攻め滅ぼされる
  • 乙巳の変で中大兄と藤原鎌足によって蘇我入鹿が暗殺

中大兄皇子が皇太子の時代に白村江の戦いがありました。敗戦後は水城を築き、近江大津宮に遷都するなど防衛に努めました。

百済が滅びて王族や貴族が日本に亡命します。高句麗も滅び、移住者のうち庶民層は関東に入植しました。

ヤマト政権は唐との関係を修復し、新羅とも良好な関係を持つようになります。

中大兄皇子が即位して天智天皇となりますが、晩年は大海人皇子を恐れます。

天智天皇の死の直前、大海人皇子は吉野に引退しますが、天智天皇が亡くなると、壬申の乱で大友皇子を倒します。

勝因は美濃や尾張などの豪族が味方したからでした。

大海人皇子は即位して天武天皇となります。

2 仏教と政争の奈良時代

奈良時代の特徴は律令制に基づく政治です。国家体制を整えていった時代でしたが、政争や反乱の多い時代でした。

  • 729年 長屋王の変
  • 740年 藤原広嗣乱
  • 757年 橘奈良麻呂の変
  • 764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱

更には僧侶の道鏡を天皇にしようという動きもありました。

この時期の政争は藤原氏の権力伸張の過程として理解されることが多いです。

政争に藤原氏が関与していることは確かですが、多くは天皇の意思に沿った動きと見た方が正しいようです。

長屋王の変も直系として皇統を継ぐ資格のある長屋王の血筋を絶やすことが目的の政治的冤罪でした。

ライバルのいなくなった聖武天皇は藤原氏出身の皇后をたて、天皇と皇女の間の皇子が直系の天皇ちみなす観念のほかに、藤原氏の血筋の女性が生んだ皇子も直系天皇になれるという観念が生まれます。

奈良時代の政争に藤原氏が深く関与したのは事実ですが、聖武系の皇統をめぐる天皇家の思惑があったと考えられます。

宝亀3(772)年、山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となり、天武系皇統から、天智系皇統へ復活します。

即位した桓武天皇は聖武系の親王を流罪にし、天武系の都である平城京から、長岡京、平安京へ遷都します。

平城京から平安京への遷都は、仏教政治の弊害を断つためと説明されることが多いですが、天武系の都であるため捨てたというのが本質でした。

3 摂関政治と院政

平安時代は藤原北家が権力を掌握し、政治を主宰した摂関政治の時代です。

摂政や関白は律令制の規定にない令外官です。摂関の特徴は天皇を前提としていることでした。

令外官で重要な役職に蔵人頭や検非違使がありました。

令外官が重視されるのは律令国家の変質を示していました。そして律令に規定されている官職も特定の貴族の請負となり、官僚制度が家職化していきます。

佐藤進一氏によると、官司請負制が成立した12世紀前半を王朝国家の成立とし、中世国家の第一の型と規定しています。

平安時代の初期も藤原氏が他氏を退けて権力を握っていく過程として説明されますが、承和の変、応天門の変も真相がよく分かっていません。

ここまでの権力闘争は日本の六つの正史に書かれていますが、正史は日本三代実録で終わります。以後国家主体での正史がなくなったのは、国家制度の重要な転換を示していると考えられます。

その意味でも律令国家が王朝国家に移行したという歴史観は正鵠を射ていると思われます。

醍醐天皇と村上天皇は摂政や関白を置かなかったため、天皇親政の理想的な時代として、延喜・天暦治と称えられます。この呼び方は皇国史観の影響を残したものです。

現在では天皇の親政であったかは、政治構造とは関係ないというのが多くの研究者の見解です。

天皇は皇統に強い関心を持っていましたが、政治は公卿が構成する太政官で行う慣行が成立していたためです。

この時代で重要なのは、藤原北家が一貫して摂政や関白になる時代が始まり、公家の最高の家柄になったこと、争いに武力を用いることがなくなり、世の中が安定した平和な時代だったことです。

摂関制度は長く続き、廃止されるのは、江戸時代が終わる王政復古の大号令が出た時のことです。

また、摂関家の方針は天皇と密着することで朝廷の主導権を握ることにあり、政治の権限は天皇に帰属していたことを誰もが認めていたのです。

地方は公領と荘園に分かれて支配されていたため「荘園公領制」と言われます。摂関家などの上級貴族が一国の支配権を握る「知行国」の制度が成立する頃、政治体制にも変動が起きます。

摂関家を外戚としない後三条天皇が即位したのです。後三条天皇が退位して上皇になると、上皇が院政を行う慣行が成立して摂関政治に重大な危機が訪れます。

院政の成立は摂関政治を否定するためではなく、繰り返されてきた自己の血筋を守ろうとする天皇による皇統をめぐる動きにほかなりませんでした。

上皇が権力を握ったことにより、結果として摂関が政治を行う体制が崩れてきたと言えるのです。

院政期には上皇を家長とする天皇家の「家」が成立し、天皇家が「私」の領域に降りてきたことで日本史における重大な変化意味しました。

白河上皇は堀川天皇が没すると、幼い鳥羽天皇を即位させますが、白河上皇の行動によって再び皇統の分裂が引き起こされ、保元の乱が引き起こされます。

この時、これまでと別の勢力が重要な働きをします。武士です。上皇や摂関家を躊躇なく攻撃する武士の登場は天皇と藤原氏中心の古代社会の終焉を宣言するものでした。

平治の乱を経て飛躍的に勢力を伸ばした平氏は、自らの軍事力を持つ鎌倉幕府を先行する武家政権という説も有力で、筆者はこの説を支持しています。

第四章 日本の変貌と三つの武家政権

1 鎌倉幕府と天皇

1185年、源頼朝は源義経らの探索を理由に、諸国に守護(惣追捕使)と地頭を設置する権利を後白河法皇に認めさせます。守護は国司の権限を引き継ぐので、任命権のある源頼朝権力は国家機関の重要な一翼を担うものでした。そのため鎌倉幕府成立を1185年とする説が出ます。

朝廷に比べると武家政権の幕府の政治機構は簡素でした。一般の政務や財政を担当する政所、御家人を統率する侍所、裁判を行う問注所が置かれました。

地方には守護と地頭が置かれましたが、西国には国衙や荘園が残り、全国に鎌倉幕府の支配が及んだわけではありませんでした。従って、朝廷や公家の支配権が継続していました。

源氏将軍が三代で絶えると、後鳥羽上皇は北条義時の追討を命じます。承久の乱です。

この乱であっという間に敗北した朝廷は権威を決定的に低下させます。

没収した所領3,000ヶ所は戦功のあった御家人を地頭に任命します。

承久の乱を経て北条家が幕府を運営していきます。北条宗家の嫡流が得宗と呼ばれて権力を握るようになります。

幕府を滅亡に導く直接の原因は、御内人の専横ではなく、両統迭立に始まる天皇家の皇統を巡る争いでした。

皇統が後深草天皇の持明院統と、亀山天皇の大覚寺統に分かれ、それぞれが幕府に働きかけて皇統を守ろうとしました。

幕府がはっきりとした態度を示せば良かったのですが、幕府の指導部の弱体化と、天皇家内部の争いのため、その場しのぎに終始しました。

この状況で後醍醐天皇が登場します。大覚寺統の後醍醐天皇に持明院統は譲位を迫りますが、後醍醐天皇は拒否しました。

しかし邦良親王が若くして亡くなると、幕府は持明院統から皇太子を出します。自らの血筋で皇統を続けられないことから、後醍醐天皇は1331年に挙兵を企てます。元弘の変です。

後醍醐天皇は隠岐に流罪となり、天皇は両統迭立の原則により持明院統の光厳天皇になり、皇太子は大覚寺統になりました。

悪党と呼ばれる新興武士層が後醍醐天皇の皇子・護良親王の呼びかけに応えて挙兵します。楠木正成らです。

これらの勢力は倒幕の主体にはなりませんでしたが、足利高氏が幕府に反いたことで決定的になります。

きっかけは後醍醐天皇の天皇位への執着でしたが、最初の武家政権の滅亡は、北条得宗家に対する御家人層の反感が積み重なったためと見ることができます。

幕府の滅亡は得宗家の滅亡に過ぎず、御家人層は健在でした。

2 弱体だった室町幕府

建武の新政を始めた後醍醐天皇は、幕府も院政も摂関も否定して天皇中心の政治を行おうとしました。

しかし天皇中心の政治ではなくなってから時がたち、後醍醐天皇は支持を失っていきます。

この中で中先代の乱が起きます。討伐するために関東へ下った足利尊氏は乱鎮圧後、建武の新政へ反旗を翻し、後醍醐天皇は吉野に逃げます。

足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、これ以後の時代を南北朝時代と言います。

足利家でも尊氏と弟・直義が対立した観応の擾乱が起き、幕府と直義派と南朝勢力の三つ巴になりました。

南北朝の動乱が、皇統が合体する1392年まで長引いたのは、武家社会に一般的だった惣領制が解体しつつあったからです。

惣領制は、それぞれの武士団の宗家を首長とし、分割相続によって生まれた分家も、宗家を中心に結束する体制です。

しだいに分家が独立の様相を強めるようになります。

分家内部では所領を細分化させないように嫡子単独相続が行われるようになります。

南北朝時代には宗家が北朝につけば分家は南朝に着くようになります。

皇統を巡る争いから、地域の武士団が勢力争いする時代に移行したと行って良い状況になりました。

網野善彦氏によれば、荘園公領制基礎とする支配がこの時期に動揺し始め、非農業民の遍歴や農業民の浮浪性を前提としていた体制が、非農業民の定着によって質的な転換を遂げていったと述べています。

永和4(1378)年、足利義満が京都の室町に花の御所と呼ばれる邸宅を構え、政治を始め、名実とともに室町時代が誕生します。

1392年に南北朝の合体が行われ、南北朝の動乱の中で力をつけた有力守護を攻め勢力を削減します。

室町時代の最盛期が始まり、太政大臣になります。

明との貿易に際して日本国王を称しましたため、皇位簒奪の意思があったと言われることがあります。

この説を支持する研究者はほとんどいません。

室町幕府の正当性は朝廷から征夷大将軍に任じられたことにあるためです。

日明貿易により莫大な利益と銅銭が大量にもたらされました。庶民のレベルまで貨幣経済が浸透し、商工業が飛躍的に発展しました。

室町時代の政治機構は将軍を足利氏が世襲で継いだ他は鎌倉幕府とほとんど同じです。

三管領四職は将軍を補佐する存在で、執権のように将軍の代わりに政治を行うものではありませんでした。

地方の守護は建前は将軍が任命するものであり、守護は在京し、国には守護代が置かれました。

関東には鎌倉府が置かれ、他に奥州探題、羽州探題、九州探題が置かれました。

鎌倉府は半独立の機関となり、鎌倉公方の下に関東管領が置かれました。

公方とは本来将軍のことですので、東の幕府といっていいほど独立性の高い存在でした。

室町幕府は有力守護連合の性格が強い政権でしたが、幕府が安定すると、将軍権力を強化し、奉公衆と呼ばれる将軍直轄軍を整備します。

応仁・文明の乱と下克上

六代将軍義教先生的な政治を行い、鎌倉公方の足利持氏を永享の乱で滅ぼし、有力大名を弾圧しました。

そのため嘉吉元(1441)年に赤松満祐と子の教康は義教を自宅に招いたところで暗殺します。嘉吉の乱です。

これにより将軍の権威が大きく損なわれました。

幕府が決定的に弱体化するのは、応仁元(1467)年〜文明9(1477)年までの、応仁・文明の乱が起こったためです。

乱のきっかけは管領の畠山家の内紛でしたが、それに将軍家の家督相続が絡み、そこへ細川勝元と山名持豊が介入して、細川方(東軍)と山名方(西軍)に分かれて戦ったものです。

この乱により将軍家は全国に対する実質的な支配権を失い、畿内を基盤とする政権へ変化します。

在京の守護は領国に戻って守護大名として生き残ろうとしましたが、領国は守護代や有力国人によって奪われてしまっているものが多く、戦国時代へ移っていきます。

各地で権力を握ったのは国人の連合である国一揆や一向宗による一向一揆などもありました。

この時代になると朝廷の影響はほとんどなくなって、政治的には全く無力の存在になります。

3 織豊政権の天下統一

16世紀半ばにマゼランが世界周航を成し遂げると、世界史が成立します。そして各国の歴史は世界史と密接な関係を持ちます。

明の海禁政策により、勘合が無いと貿易ができませんでした。そのため、非合法な中継貿易が行われ、倭寇が活動しました。

南北朝時代の倭寇は前期倭寇と呼ばれ、日本人が主体でしたが、後期倭寇になると日本人主体の海賊ではありませんでした。

天文12(1543)年、ポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝えられますが、ポルトガル人を乗せた船も中国人倭寇のものでした。

鉄砲は同時期に西日本にも伝来したようでした。

鉄砲が広まり、堺、紀伊の根来や雑賀、近江の国友などで生産されます。

戦国大名の戦いも、騎馬武者中心から、足軽鉄砲隊を活用するものに変化します。

南蛮人と呼ばれたポルトガル人やスペイン人の貿易はキリスト教宣教師の活動と一体のものでした。

数多くの戦国大名の中からほぼ天下統一を実現したのが織田信長でした。

信長の軍事力で将軍になった足利義昭でしたが、信長の意向を離れて将軍の意向書である御内書を発給するなど独自の政治的な動きを始めます。

信長は殿中の掟を定めて義昭の行動を規制しようとしましたが、元亀3(1572)年に反信長の態度を鮮明にします。

信長包囲網を作って天正元(1573)年に挙兵します。しかし、すぐに降伏して畿内から追放されます。

この時点で室町幕府は実質的に滅亡します。

信長は卓越した軍事力を有していましたが、様々な勢力を従わせるには室町幕府復興の名分が必要でした。

一方で足利義昭が将軍として独自の動きをし始めたのは、将軍とはそうした役割を持つものだという観念が義昭に強くあったことを示しています。

世間や個々人に刻印されている意識がどのようなものであったかが歴史を読み解く上では重要な意味を持ちます。

近世はいつから始まったか

近世の始まりは織豊期からとするのが一般的です。

寺社や一向一揆、国人一揆など複数の権力が分立していた中世的支配構造を克服し、一元支配に成功したからです。

厳密な議論をすれば、秀吉の刀狩りによって実現した兵農分離が近世の画期と考えられます。

太閤検地はその土地を耕作する農民にのみ土地の権利を認めました。支配・権利関係が複雑だった荘園生の名残が最終的に終焉を迎えたのです。

著者は、耕作から離れた兵と、武器の使用を否定された農が分離された体制を、近世の本質と考えています。

室町幕府を滅ぼした織田信長が正当性の根拠とし、安定させる役割を果たしたのが朝廷でした。

信長は右大臣まで昇りますが、ほどなく辞任します。この評価を巡って、研究者の意見が分かれます。

信長と朝廷の関係を対立的に見る立場もあり、有力な学説ですが、著者は蜜月状態が続いていたとする説を支持しています。

朝廷が右大臣より上の官位を提供する意思を示しますが、態度を保留します。

著者は信長が朝廷の権威を借りずに武力で天下統一し、その後に何らかの官位に就いて室町幕府のような統治機構を作ろうとしたのではないかと考えています。

信長の後継者になった秀吉も、後継争いに勝つまでは官位にこだわりませんでした。

朝廷が秀吉を信長の後継者として認めると、武家政権を委ねる姿勢をはっきりと示します。

これまでの武家政権は征夷大将軍になることで支配権を確立してきましたが、秀吉は公家の就く官職である関白になって武家政権を運営しようとしました。

関白になることで天皇の意向として叡慮による停戦を命じました。惣無事令です。実際は武力によって屈服させたので、叡慮によるものではありませんでした。

朝廷にとって秀吉は伝統的な院と天皇の関係を回復してくれた恩人にもなりました。

豊臣政権の最大の謎は唐入りです。明に攻め込むことが目的でした。

近世外交史が専門の武田万里子氏によれば、秀吉の目的は明の制服ではなく、明を屈服させて大明四百余州のうち百カ国を割譲させようとしたものでした。寧波を中心とする中国沿岸部と周辺地域と推測しています。

この説によれば、秀吉は東アジア海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたと考えることができます。

4 江戸幕府と徳川の平和

関ヶ原の合戦は豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣政権内での戦いでした。

徳川家康は豊臣政権の代表者として振る舞うことで覇権を握りました。

1600年の時点では徳川家康は1大名でしたが、1603年に江戸幕府が成立すると、秀吉の直轄地を豊臣家の財産ではなく、武家政権の財産とみなして幕府に接収して行きました。そのため、豊臣秀頼は1大名になります。

徳川家康の強権的手段によって全国の大名は幕府に一元的に服属します。

日本の近世国家の本質は幕府と藩の連合国家と見ることができます。幕府と藩という領主権力の結合によって統治するあり方を幕藩体制といい、幕藩体制に基づく国家を幕藩制国家と呼びます。

同じ武家政権でも室町幕府以前と江戸幕府とでは政治機構のあり方がまるで違いました。

領地がここの武士の家の独自財産として存在していた中世社会から、上から給付されるものとみる近世社会へに大きな変化でした。

江戸幕府の成立以後、改易と転封が繰り返され、誰もが認める観念となり、領地は大名の財産ではなく、国の民を養うために大名がいるという観念に発展します。

江戸時代になると朝廷は伝統的な王朝の意味合いしか持ちませんでした。

18世紀末に松平定信が、動揺する幕府政治を正当化するため委任論を理論づけしました。朝廷が幕府に政治を委任している以上、幕府が自由に政治を行うことができるというものでしたが、委任されているということは、朝廷の方が上位にあるという諸刃の剣でした。

嘉永6(1853)年、ペリーが日本にやってきてから大きく動揺します。

キーワードは尊王攘夷です。

黒船来航時に幕府はアメリカとの戦争回避を方針としましたが、理性的な選択は、攘夷があるべき姿と考える武士にとっては、政権を守るための正しい方針とはなりませんでした。

歴史においては時代を支配する激情が勝利します。判断が論理的に正しく見えても、時代の波に逆行してしまうと、波に呑まれてしまいます。

5 明治維新と日本の近代

明治2(1871)年に版籍奉還が行われ、明治4年に廃藩置県を断行します。これはこれで倒幕以上の大きな変化でしたが、軍事的な動乱なしに実現します。

これは幕藩体制が幕府と藩の連合政権だったことがあり、幕府が倒れると多くの藩が自立して領内支配を維持することが困難になった事情がありました。

明治時代になり、実質はともかく、身分制による制約がほとんどない平等な社会が形成され始めます。日本の近代の成立です。

経済史的には資本主義社会の成立が近代の画期になりますが、そのためには江戸時代の身分制度の撤廃が必要でした。

西南戦争の終結によって士族の反乱は終わります。武士に許されていた武装という特権は、観念の上でも最終的に国家に吸収されることになりましょう。

以後の政府への反抗は自由民権運動という形で現れます。

終章 歴史はどう考えられてきたか

先入観による勝手な思い込みや、信じたいことだけに目を向けるような狭い視野では意味がありません。

タイトルとURLをコピーしました