
900年の歴史を積み重ねた城
江戸の街の中心にある江戸城。千代田城とも呼ばれます。
最初にここに城を築いたのは平氏の秩父氏から別れた江戸氏で1150年頃と言われます。遺構が見つかっていませんが、本丸あたりにあったのではないかと推測されています。
江戸城の前には海が広がり、平川と石神井川が流れていまし。水運に適した土地で、水運が盛んだったようです。
室町時代になると、江戸氏の勢力が衰え、本拠地を今の世田谷区喜多見に移してしまいます。
次に江戸城を本拠地にしたのが太田道灌でした。1456年(康正二年)に築城を始め、翌年には完成します。
道灌の時代は子城、中城、外城に分かれていたようですが、どこかは不明とのことです。中核となる中城は本丸あたりにあったのではないかと思われます。城下は栄えたようです。
その後、上杉氏が支配を続けますが、1524年に北条氏綱に攻められ、落城します。
徳川家康が江戸城を攻め落としたのが1590年(天正十八年)でした。
この年から江戸城の再構築が始まり、完成を見るのは江戸時代の三代将軍徳川家光の時代で、1638年(寛永十五年)になります。五十年近い歳月をかけてできた巨大な城です。
徳川家康入府時
徳川家康が江戸に入った時、100戸位しかない寒村だった、と言われていますが、どうやら違うようです。自分の業績を大きく見せるために、えらい寂れた場所だったことにしたそうです。
実際、都内の旧朱引にあたるエリアを歩き回り、寺社の創建時の様子が書かれている案内板や案内書を読むと、江戸開府当時に非常に寂れていたとは思えません。
繁栄していたわけではないでしょうが、海運や水運がそこそこ発達して、物流に便利な場所として程々に栄えていたのではないかと思います。近くには浅草寺などの寺町もありましたので、密集していたわけではありませんが、程々の集落が近いところに点在していたのではないかと思われます。
そうでないと、急速な都市の拡大がなかったのではないかと思います。すでにそこそこの人口があったからこそ、人口の急速な流入を受け入れることができ、そうした急激な人口の流入に耐えられる食料の供給体制が確保できる状況だったからこそ、当時世界最大の都市になれたのではないかと思うのです。
田畑は短期では出来上がりません。時間がかかります。100戸位しかない村、そこから想起されるのは、開拓されていない農村ということになりますが、そうではなく、急激な人口の流入に耐え切れる農業生産があったのではないでしょうか。
江戸の初期がどうだったのかは、そのうち改めて調べたいと思います。
天海が風水で護った城という説
江戸を徳川家康が選んだのは天海の献策によるものという説があります。その天海が江戸を選んだ理由が、江戸が風水における「四神相応」の考えにかなった土地だったからという説です。
四神とは、青龍、白虎、朱雀、玄武を指します。四神相応に適した土地とは、東に青龍が宿る川、西に白虎が宿る道、南に朱雀が宿る水面、北に玄武が宿る山がある土地とされます。(四神相応のこの解釈・考えがそもそも間違っているという説もあります。)
江戸は、東に平川、西に東海道、南に江戸湾、北に富士山が見える麹町台地があり、四神相応の条件を満たす場所というのです。
そして、天海は江戸城を中心に、陰陽道の北東「鬼門」、南西「裏鬼門」を固めたとされます。京都の場合、鬼門である北東には比叡山延暦寺、裏鬼門である南西には石清水八幡宮がありますが、これに倣って、鬼門、裏鬼門に寺社を配置したというのです。
鬼門封じの役割
裏鬼門封じの役割
よく燃えた江戸城
火の元は大奥
天保十五年(一八四四)。江戸城は明暦の大火(一六五七)以来二百年ぶりとなる火事で本丸御殿が焼失しました。御殿の半分以上を占める大奥も焼失しています。
火の勢いは凄まじく、徳川家斉の正室だった広大院も御末に背負われて避難しています。広敷用人などは広大院の救出を試みたらしいですが、普段は立ち入れない大奥のため、広大院の居場所がわからなかったようです。
この焼失から約二十年後に幕府は倒壊しますが、それまでの間に度々火事に見舞われました。
火の元は大奥でした。
火災の被害が大きくなった原因は、何日も雨が続き、よもや火事が起るとは思っていなかったので、注意が足りず、しかも大きな雨音のせいで発見が遅れたということらしいです。
しかも、大奥の部屋の仕切りは土壁ではなく木材であったため、火の廻りが早く、出口を炎で遮られ、逃げ出せずに亡くなった女中が多かったようです。
本丸御殿は、現在の皇居の東御苑の一部になっています。ちなみに、皇居東御苑は、江戸城の旧本丸・二の丸、三の丸部分にあたるそうです。
かつての大奥は、明暦の大火後、再建されることのなかった天守閣跡のすぐ南にありました。将軍の世継ぎや隠居した大御所らが住んだ西の丸部分は、皇居宮殿となっています。
本丸御殿再建
天保十五年の全焼後、弘化二年(一八四五)に本丸御殿は再建されています。記録によると、本丸の面積は三万四五三九坪、うち御殿の広さは一万一三七三坪でした。
本丸御殿は表向、中奥、大奥の三つに分れています。
表向きは幕閣たる老中らが詰める部屋や役人の部屋から構成されています。
中奥は将軍が日常生活を送る空間です。
そして、大奥があります。大奥は御殿の内六三一八坪あった。表向と中奥を合わせた面積よりも広かったようです。
安政六年(一八五九)に再び本丸御殿が焼失します。将軍は前年に家茂が十四代将軍になったばかりでした。家茂は天璋院らとともに西の丸に移り本丸御殿の再建を待つことになります。
再建は万延元年(一八六〇)のことです。
文久三年(一八六三)。和宮降嫁後、家茂が京へ上洛したあと、また本丸御殿が焼失します。
この前に西の丸も焼失していたため、西の丸御殿での仮住まいもできず、家茂は田安屋敷へ、天璋院は清水屋敷へと移ることになります。
元治元年(一八六四)。西の丸御殿が再建されますが、本丸御殿は再建されることがなく幕末を迎えます。
天守閣再建運動
大阪城や名古屋城には天守閣があり、それぞれの街を象徴するランドマークとなっています。ですが、江戸城には天守閣がありません。
もちろん完成時にはあったのですが、焼け落ちてしまい、再建されなかったのです。太平の世になり、無用ということになったようです。財政が厳しかったというのもあるようです。
さて、この天守閣を再建しよういう市民運動があります。もし実現すれば、真の意味で東京のランドマークが復活することになります。海外からも城を見に来る客が増えるのは間違いないでしょう。
そして本丸御殿も復活できれば素晴らしいと思います。名古屋城が先行して本丸御殿を復活させるので、東京も負けていられません。
国指定の特別史跡になっています。

皇居東御苑

- 大手門・大手門橋
- 同心番所
- 大手三の門跡
- 大番所
- 中之門跡(未撮影)
- 百人番所
- 中雀門跡(未撮影)
- 本丸跡・表御殿
- 富士見櫓
- 松の廊下跡
- 大奥跡(未撮影)
- 富士見多聞
- 石室
- 天守台
- 平川橋(未撮影)
- 北桔橋(きたはねばし)
- 西桔橋(にしはねばし)(未撮影)
- 下梅林冠木門外橋(未撮影)
皇居外苑

- 外桜田門(未撮影)
- 楠木正成像
- 桜田門橋
- 祝田橋(未撮影)
- 馬場先門橋(未撮影)
- 和田倉橋
- 桔梗門橋
- 坂下門橋
- 石橋
- 二重橋
北の丸公園

- 田安門(未訪問)
- 清水門(未訪問)
- 竹橋
- 清水門橋(未訪問)
- 田安門橋(未訪問)
- 半蔵門橋(未訪問)