ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第7集)の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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新九郎にとって怒涛の文明三年が終わろうとしています。

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

第7集の人物関係

第7集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(政所執事)
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定(父)
蜷川親元(政所執事代)
伊勢貞藤(貞親の弟)
細川氏細川勝元(管領)
山名氏山名宗全
斯波氏斯波義敏
朝倉孝景
斯波義廉(管領)
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就

第7集で描かれる時代背景

本書の舞台となるのは、文明三(1471)年です。新九郎は数え年で16歳です。

関係年表

文明2年(1470年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大内教幸が反乱を起こす。陶弘護に撃退される。
【京都】東西両軍の戦いは膠着状態。京都の市街地は焼け、荒廃した。
【地方】上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大。

ーーー第4集はここからーーー

文明3年(1471年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】西軍の主力・朝倉孝景が東軍側に寝返る。
【関東】足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻。上杉顕定らはその間に古河に出陣。

文明4年(1472年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める

ーーー第7集はここまでーーー

物語のあらすじ

凶の都

九郎盛頼からつるが嫁ぐと聞いて新九郎は荒れました。九郎盛頼言うには昨日決まったようです。

そういえば別室で何やら話をしていたのを思い出しました。

そして、つるは早々に九郎盛頼に嫁ぎました。

九郎には京に正妻と長男がいます。つるは現地妻という表現がふさわしい形で掃部助家に入りました。

この日を境に九郎盛頼が西荏原の実質的領主になりました。

意気消沈の新九郎の前に「狐」が現れ、直した鎧を届けました。

七月。京では弥次郎が高熱を出していました。疱瘡が流行り始めていたのです。

梅雨が明けましたが、荏原は水不足の可能性があります。

つるとの恋を諦めた新九郎でしたが、家臣たちに読み書きを教えて過ごしていました。

この頃には京での疱瘡の流行は本格化しつつありました。そして疫病は疱瘡だけに留まらず、麻疹も流行り始めました。

疱瘡と麻疹が相前後して流行したため、京は死の都になりつつありました。

上流階級の家々にも触手を伸ばし、数名の公家が命を落とし、日野勝光も一子を失いました。

将軍・義政の子・春王のいる伊勢邸では弥次郎の麻疹が飛び火しないよう目配りをしていました。

そうした中、須磨が麻疹にかかり亡くなりました。

知らせはすぐさま備中荏原の新九郎にもたらされ、今川家に嫁いだ姉・伊都にももたらされました。

今川家では伊都と今川義忠が話をしていました。そこに義忠の従弟・小鹿今川新五郎範満がやってきます。

その頃、新九郎は京の伊勢邸に着いていました。新九郎を出迎えたのは快復した弥次郎でした。

父・盛定は須磨を亡くして、心ここに在らずの状況が続いていました。

母・須磨の葬儀は伊勢貞宗が仕切ってくれていました。

貞宗は疱瘡が室町御所にも入り込んで主上が倒れたことを教えてくれました。そこにきて義政日野富子喧嘩をしていると言うのです。

貞宗は新九郎にしばらく京にいて盛定が積み残した仕事を片付けるように命じました。

そして、追い打ちをかけるように第三の疫病が流行り始めます。赤痢です。

夫婦仲が険悪となった足利義政は室町御所から逃げ出すように管領・細川勝元が義政を迎えるために新築した邸宅に移ろうとしましたが、状況が良くないことから、細川勝元が思い止まらせました。

足利義政の子・春王が発病しました。次いで足利義政、日野富子が発病します。皆赤痢でした。

往来

新九郎は細川勝元と会っていました。勝元の顔には疲れが色濃く滲んでいました。

そこで聡明丸に会いました。そのことを伊勢貞宗に伝えると、聡明丸だいぶわがままに育っていると言います。

新九郎から細川勝之の話を聞いた貞宗は、細川勝元が家督を勝之に継がせるのかと聡明丸に継がせるのかを迷っていることを察知します。

貞宗は、細川勝元が山名宗全との和睦を考えているなら、家督は聡明丸の一択だと言います。聡明丸には山名の血が入っているからです。

新九郎は敵方に寝返った叔父の伊勢貞藤を訪ねました。母・浅茅にも会えました。

日常の些事は互いに筒抜けです。膠着状態が長引くうちに緊張感が失われつつあったのです。

互いに攻めてを欠いて五年が経過していました。そろそろ終わりにしたいものの、簡単には和睦ができない状況になっていました。

新九郎は貞藤に山名宗全と会えないかと頼みました。碁の勝負の決着がついていないからです。

久しぶりに会った山名宗全は病で弱まっていました。そのことを戻って細川勝元に伝えられるとまずいと考えた畠山義就と大内政弘は一計を案じます。

伊勢邸に戻る途中、新九郎と彦次郎は襲われます。窮地を助けてくれたのは、横井掃部助時利の家人・多米権兵衛元成でした。

後北条氏に仕えた大道寺氏、多目氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏ら6名の重臣を総称して御由緒六家(ごゆいしょろっけ)と呼びます。

多米権兵衛元成が「多目氏」なのでしょうか…。

戻ると荏原から書状が届いており、新九郎は荏原へ向かいました。

荏原に戻るとつるが懐妊したと言う話を聞きました。そして妙な噂が流れています。つるのお腹の子の父親が新九郎ではないかと言うものです。

明けて文明四(1472)年。

細川勝元は山名宗全との和睦交渉に入りましたが上手くいきません。関東の動乱も収まりがつかず、細川勝元は責任を取って、細川勝之巻き込んで隠居の意思を示しました。

こうして細川家の家督は聡明丸が継ぐことになりました。

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