ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第4集)の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

第4集の人物関係

第4集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(政所執事)
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定(父)
蜷川親元(政所執事代)
伊勢貞藤(貞親の弟)
細川氏細川勝元(管領)
山名氏山名宗全
斯波氏斯波義敏斯波義廉(管領)
朝倉孝景
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就

第4集で描かれる時代背景

本書の舞台となるのは、文明三(1471)年春です。新九郎は数え年で16歳です。

関係年表

文明2年(1470年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大内教幸が反乱を起こす。陶弘護に撃退される。
【京都】東西両軍の戦いは膠着状態。京都の市街地は焼け、荒廃した。
【地方】上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大。

ーーー第4集はここからーーー

文明3年(1471年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】西軍の主力・朝倉孝景が東軍側に寝返る。
【関東】足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻。上杉顕定らはその間に古河に出陣。

ーーー第7集はここまでーーー

文明4年(1472年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める。

物語のあらすじ

荏原郷

現在の岡山県井原市にあった荏原郷は室町時代のほとんどの期間を通じて伊勢氏の庶流である備中伊勢氏が所領としていました。

文明三(1471)年春、伊勢新九郎盛時が荏原郷の高越山に着きました。

ーー二ヶ月前の京都

16歳になった新九郎と大道寺重時は弓の練習をしていました。

そこに現れたのは山中駒若丸でした。市中の様子を見てきたのでした。

後北条氏に仕えた大道寺氏、多目氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏ら6名の重臣を総称して御由緒六家(ごゆいしょろっけ)と呼びます。

第1巻で大道寺太郎重時が登場しました。第2巻で荒川氏の荒川又次郎と在竹氏の在竹三郎が登場します。山中氏の駒若丸が登場し、4家が出そろいました。

新九郎が父・盛定に呼ばれました。側には弟の弥次郎がいます。

盛定は地方に戦線が拡大していることを伝え、西国の備後でも反乱が起きていると言います。

応仁・文明の乱は主戦場を地方に移しつつありました。

原因の一つは細川勝元の戦略にありました。

東軍は西軍を降伏寸前まで追い込みましたが勝ちきれず、大内政弘の軍勢を得た西軍に包囲される危機に瀕していました。

そこで考えたのが、西軍勢力の背中をかき回すことでした。

西軍守護の分国内で反乱をたきつけたり、隣国からの侵入を命じたのです。

この結果、分国内に戻る守護が増え、市中から軍勢が減ってゆく原因となりました。

備中伊勢氏の所領である荏原は備後に近く、山陽道が通っています。

備後に遠征する際には所領近くに軍勢がひしめきます。

細川勝久の頼みということもあり食料の支援をすることになりましたが、盛定は新九郎に荏原に行かせることにしました。

新九郎も確かめたいことがあり、荏原に行きたいと思っていたところでした。

家の帳簿を見ていると収支におかしな点があるのです。

荏原に向かうにあたり、亡き兄・八郎貞興の鎧を直すことにしました。「狐」が腕の良い鎧師であることを知り、直しをお願いした。

新九郎と共に荏原に向かうのは大道寺太郎、荒川又次郎、在竹三郎、山中駒若丸、荒木彦次郎です。

後北条氏に仕えた大道寺氏、多目氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏ら6名の重臣を総称して御由緒六家(ごゆいしょろっけ)と呼びます。

荒木氏が加わり、これで5家まで出そろいました。残るは多目氏ですが、いつ出てくるのか、それともすでに出ているのか…。まさか「狐」がそうだとか…。

荏原の高越山の麓にある城主館に入り、城代の笠原美作守の挨拶を受けました。

手違いがあり、主な被官衆が集まっていませんでした。

何やら最初から雲行きが怪しいです。

しかし新九郎は普段使われていない城主館が綺麗にされているのを確かめると、必ずしも粗略に扱うつもりではなかった考えました。

腑に落ちない在竹三郎と荒川又次郎は笠原美作守の三男・弥八郎に事情を聞きにいきました。

すると荏原政所が来ていて話をしていたことがわかりました。

荏原政所は伊勢家の領地である荏原の財政を司る役所です。

西荏原の伊勢掃部助盛景の館に隣接し、盛景の弟、盛定の兄である珠厳が頭人(長官)を務めていました。

そもそも東荏原と西荏原の境目は入り乱れており、容易に分けられなくなっています。

そこで東西の年貢を一度政所に集めて折半することになったのです。

しかし折半は珠厳の胸先三寸のため正しく折半されているかが分からないそうです。

こうした状況を被官の平井安芸守と井上飛騨守が説明してくれました。

そして近々、伊勢盛景の息子・九郎盛頼が戻ってくることがわかりました。

新九郎は珠厳に会いに荏原政所に向かいました。そこに九郎盛頼がやってきました。九郎盛頼は備後の情勢を見てきていたのでした。

宴が開かれました。

飲みすぎた新九郎でしたが、翌日は駒若を連れて領内を巡りました。

そこで領民は東も西もなく荏原の領主に仕えている実態を目の当たりにします。そして領民にとっての領主は掃部助盛景でした。

新九郎と駒若は引き続き領内を巡り、父・伊勢盛定の菩提寺である長谷山法泉寺の四世住持・葵山仁忠を訪ねました。

仁忠からは盛定はもう少し熱心に所領の経営をすべきだったと苦言されます。

高越山周辺は被官の尽力で何とでもできますが、少し離れると掃部助盛景の影響が強くなります。

所領分割の際の軋轢もあったことから、盛定ははじめの内に領地経営の熱意を見せるべきだったというのです。

つまりは、荏原でのゴチャゴチャは祖父と父・盛定が蒔いた種と知り、新九郎は気が重くなりました。

考え事をしながら歩いていたため、新九郎と駒若は道を間違えてしまいます。

そこに現れたのは那須一族の者でした。いつの間にか他領に踏み込んでしまっていたのです。

館に戻った二人は皆から怒られます。

館で食事をとりながら、今日出会った那須の一族のことを教えてもらいます。

いわゆる源平の合戦で活躍した那須与一が恩賞として荏原を与えられ、その子孫が西荏原に住み着いているのだといいます。

プライドの高い一族で伊勢家入部の以前から荏原を治めていたと鼻息も荒く、源頼朝自筆の下文も持っていると吹聴していました。

新九郎は源頼朝自筆の下文に俄然興味を持ちました。

新九郎は精力的に働き始めました。政所の書庫で調べ物をし、領地の田畑の広さを調べたりしました。

しかしこのことが荏原郷で波紋を広げていきます。在竹三郎らは家に戻ると父や兄からキツイ嫌味を言われ閉口しているのでした。

3月中旬になると、山陽道が騒がしくなります。ついに山名弾正忠是豊の軍勢がやってきたのです。

そうした中、新九郎は那須修理亮の館に招かれます。

新九郎が源頼朝自筆の下文を見たいという意図が分からず、備中那須家当主の那須修理亮資氏が真意を聞きたいと思ったのです。

何よりも西荏原の盛景親子と折り合いが悪いらしいと知り興味を覚えたのでした。

しかし新九郎が本当に源頼朝自筆の下文を見たいだけと知り驚きます。

これを廊下で聞いていて笑いを堪えていたのは、先日出会った那須家の者でした。

資氏の従姉でつると名乗りました。

京では足利義政と細川勝元は朝倉孝景を味方にするために、どこまで要求を飲むか相談していました。

側には将軍正室・日野富子の兄・日野勝光がいました。

細川勝元は朝倉孝景に越前守護相当の地位を与えることにしました。これを聞き、伊勢貞親は思い切ったことをしたと感想を漏らします。

朝倉一族が寝返れば東軍が有利になりますが、斯波義敏がヘソを曲げないよう慎重にことを運ばねばなりません。

応仁・文明の乱における、斯波義廉の強さは朝倉孝景の力に負うところが大きかったため、朝倉孝景が東軍に寝返れば、斯波義廉の勢力は機能不全に陥ります。

足利義政から工作を命じられていた細川勝元と伊勢貞親が数年間かけた工作の実が結ぼうとしていました。

それが整えば、春王を次の将軍にすべく動くつもりであることを長男の兵庫助貞宗にも話します。

これを聞いた貞宗は春王の代になっても貞親は権力を振るうつもりだと感じました。冗談ではない…。

その頃、備中荏原。

細川勝元は備後鎮圧のための後詰に直属の庄伊豆守を向かわせましたが、その軍勢が城下を通り過ぎました。

隣国では争乱の最中でしたが、荏原郷は信じられないほど無風でした。

新九郎は又次郎や三郎の意見を取り入れて、何をするでもなく散歩することにしました。そして田畑の野良仕事を手伝います。

荏原政所では珠厳と九郎盛頼が新九郎の人物評していました。同じく那須家においても那須資氏とつるが新九郎を見定めようとしていました。

つるが新九郎を訪ねてきました。弓馬の勝負をしようというのです。新九郎が勝てば源頼朝自筆の下文を見せるといいます。

勝負はつるの勝ちでした。

城代の笠原美作守はカンカンでした。領民に示しがつかないからです。

一方、つるは新九郎頭がよく諦めない点を評価していました。ああいうタイプが手強いからです。那須資氏には付き合って悪い相手ではないだろうと告げるつもりでした。

新九郎の名前も領内で少しずつ知られるようになりました。

こうした中、庄伊豆守元資が頼み事があってやってきました。

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