ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第3集)の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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第3集の最初の逸話には、ある研究によると興味深い説があるようです。この説を採っていたら、話の流れが変わっていたと思われます。

作者のゆうきまさみ氏も次のように述べています。

ある人の研究によると、伊勢駿河守家の所領が近江国田上杣荘だったとある。事実であれば、足利義視を近江国田上荘で襲った落武者狩りは、貞親の命令によるものという可能性も考えられないか。

https://twitter.com/masyuuki/status/1359076831727505409

この説を知ったのは、あのエピソードを描いた後であった。知っていたらどうしていたかな。

https://twitter.com/masyuuki/status/1359079379133845504

これに限らず、描いた後で「くわぁっ、これを先に知っていたら!」と思う情報に出くわすことは度々。

https://twitter.com/masyuuki/status/1359311241647255553

あと、様々な説を勘案すると、そこからある事実についていくつかの可能性が浮かび上がることがあって、漫画では(よほどメタな作品でない限り)その中の一つを採用するしかないから、他の可能性は泣く泣くお蔵にするしかなくなるのだった。

https://twitter.com/masyuuki/status/1359349228259078144

義視には当然その推察ができたはずで、亡命先の伊勢から京に戻り、明らかに自分を殺そうとした伊勢貞親が幕閣に復帰しているのを見た時、「とてもここにはいられない」と出奔してしまったのは無理からぬことと思う。

https://twitter.com/masyuuki/status/1359081831144906755

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

第3集の人物関係

第3集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)東軍から西軍へ⇒ 足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(政所執事)
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定(
蜷川親元(政所執事代)
東軍から西軍へ⇒  伊勢貞藤(貞親の弟)
細川氏細川勝元(管領)
山名氏山名宗全
斯波氏斯波義敏斯波義廉(管領)
朝倉孝景
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就

第3集で描かれる時代背景

本書の舞台となるのは、応仁二年秋~文明三年春です。新九郎は文明三年には数え年で16歳になります。

関係年表

文正2年(1467年)後に応仁に改元
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長→斯波義廉
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】御霊合戦(上御霊神社の戦い)。上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突。

ーーー第3集はここからーーー

応仁2年(1468年)
●将軍:足利義政 ○管領:斯波義廉→細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】足利義政と細川勝元は足利義視を説得して東軍に帰陣させる。文正の政変で失脚した伊勢貞親を政務に復帰させる。足利義視は再度出奔して比叡山に登った西軍が足利義視を迎え入れて新将軍とする。西幕府。細川勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。西岡の戦い。大内政弘によって山城国は西軍によって制圧されつつある。
【関東】上野で綱取原合戦。

文明元年(1469年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大友親繁・少弐頼忠が大内政弘の叔父・大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻する。陶弘護に撃退される。
【関東】岩松持国の次男・岩松成兼が上杉方の岩松家純に追放され、岩松氏を岩松家純が統一する。

文明2年(1470年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大内教幸が反乱を起こす。陶弘護に撃退される。
【京都】東西両軍の戦いは膠着状態。京都の市街地は焼け、荒廃した。
【地方】上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大。

文明3年(1471年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】西軍の主力・朝倉孝景が東軍側に寝返る。
【関東】足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻。上杉顕定らはその間に古河に出陣。

ーーー第3集はここまでーーー

文明4年(1472年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める。

物語のあらすじ

兄と弟

戻ってきた八郎貞興は父新九郎に伊勢へ逃げる時の出来事を話しました。

足利義視一行が近江田上荘で休息をとっている時、荘の者が襲ってきたのです。落武者狩りです。

その際に八郎貞興は顔に傷を受けました。

翌年…田上荘が侍達に襲われました。

足利義視の手勢です。一年前に受けた仕打ちの仕返しでした。

報告を聞いた伊勢貞親は田上荘のことは仕方がないと考えます。そして引き続き八郎貞興が足利義視に仕えることになりました。

八郎貞興は、足利義視はとても正直で素直なのだと言います。

御所で足利義視が兄・足利義政に諫言をしていました。

御所から佞臣を取り除くべきだというのです。

まずは日野勝光だと言います。勝光は足利義政の妻・日野富子の兄です。

勝光は御台所の兄という立場を利用して権勢を強めていました。

その勝光の毒が足利義政の中に回り始めていました。

将軍兄弟の決裂の始まりとなります。

別離れの夜

足利義視は還俗してから4年しかたっていません。将軍継嗣足利義視は東軍内で孤立しつつありました。

この頃、越前でひとつの転機がありました。

東軍の斯波義敏が西軍の斯波義廉の勢力を破ったのです。

これにより京への越前ルートの補給路は東軍のものになりました。

斯波義廉の敗戦は、義廉の重臣である朝倉孝景足下を揺るがしました。

これで伊勢貞親が仕掛けている調略がうまく行くかもしれません。

御所に足利義視が呼ばれました。そこで見たのは伊勢貞親の復権でした…

朝倉孝景が伊勢貞親らの調略に乗るように京を去り越前へ向かいました。

西軍の切り崩しが上手く行き始めているなか、足利義視に伺候していた有馬元家が赤松政則によって殺害されます。

足利義視はいよいよ追い詰められていきました。

伊都が今川家に輿入れする日、足利義視と兄・八郎貞興が姿を消しました。

新九郎は八郎貞興を探して走り回りました。

その最中に備中荏原の伯父・伊勢掃部助盛景と出会いました。

荏原で盛景は西荏原を有し、父・盛定は東荏原を有していました。

盛景は八郎貞興が足利義視と一緒にいるのではないかと疑っていました。

新九郎は足利義視が駆け込むとしたらどこだろうかと考え、比叡山ではないかと考えました。

だとすれば鴨川を渡るはず。鴨川へ急ぎました。

新九郎らは足利義視一行を見つけました。そこで立ちはだかったのが八郎貞興でした。

その八郎貞興が矢で撃たれました。追いついてきた伯父・伊勢掃部助盛景の手勢が放ったのです。

文明三年

八郎貞興の亡き骸が伊勢邸に運ばれました。

須磨は息子の死を前に慟哭し、新九郎は何もできなかったことで己を責めました。

伊勢家会議において、貞親は足利義視の謀反と断じ、加担した八郎貞興も同罪と断じましたが、問題はどう収集をつけるかです。

伊勢家では貞藤が疑いをかけられて失脚しています。

この時勢において貞親の膝元から謀反人が出るのは聞こえが悪いため、病による急死と扱うことになりました。

新九郎は異を唱えることのできない己の無力を嘆いていました。

その様子を盛定の家人が鼓舞します。

荒川又次郎は新九郎に将来の主として心構えを持っていただきたいと言いました。在竹三郎も言いました。

新九郎は涙を流しながら、応えることを約束しました。

足利義視の再度の出奔は足利義政にとって思いもよらぬことでした。細川勝元は足利義視を見限っており、山名宗全は同情的でした。

西軍には権威が欠けていたため、足利義視を欲しました。足利義視は斯波義廉邸に入り、西軍の将軍になりました。

これ聞いて足利義政は激怒しました。

足利義政は足利義視と同調者たちの官位を剥奪し、治罰の院宣を発給させ、朝敵としました。

しかし西軍の士気は衰えず、山名宗全の男気と勝利への執着などが混然一体となり、西軍内に御所体制が構築されていきます。

いわゆる西幕府です。

応仁三年に改元されて文明元年となります。文明二年、三年となると京都市中での戦闘がめっきり減り、乱の舞台は地方へ移っていきます。

東軍の山名是豊が平定した備後に西軍が乱入したため、山名是豊は再び備後に出陣することになりました。

細川兵部少輔勝久は盛定に山名是豊の後詰の備えだけして欲しいと頼んできました。

16歳になった新九郎は盛定の名代として荏原に行くことになりました。

荏原郷

いささか古い話ですが、文安5(1448)年。

当時の伊勢家の当主は伊勢貞国でした。盛定が貞国に呼ばれて須磨と結婚するように言われました。

盛定は四男であったため何の声もかからないところだったが、伊勢家一門の宗家の一女を娶ることになったのでした。

そして荏原の所領の半分も継ぐことになりました。

やがて長男と長女を授かり、浅茅とも出会うのでした。

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