藤井讓治「戦国乱世から太平の世へ」(シリーズ日本近世史①)を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

扱う時代は織豊政権の安土桃山時代から徳川家光の治世下の江戸時代までの五人の為政者の時代、およそ100年です。

具体的には織田信長から始まり、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光までの五名の時代を扱っています。

「はじめに」で述べられていますが、この時代の「天下」は、意味合いが移り変わった時期で、江戸初期になって現在と同じ意味合いを持つ様になります。

それでは織田信長や豊臣秀吉の時代における「天下」とはどの様な意味合いだったかと言いますと、「京都あるいは京都を核とする畿内(上方)を指すことがほとんど」でした。

一方で、日本全土を表現する際、豊臣秀吉の時代には「日本」「日本六十余州」と表現しました。

「天下」が日本全土を意味するようになるのは、豊臣秀吉の後半頃から徐々に使われる様になり、江戸時代初期には日本全土を意味する様になります。

本書で扱っている時代は下記にてまとめています。

岩波新書の日本史シリーズ
  • シリーズ日本古代史
    1. 農耕社会の成立
    2. ヤマト王権
    3. 飛鳥の都
    4. 平城京の時代
    5. 平安京遷都
    6. 摂関政治
  • シリーズ日本中世史
    1. 中世社会のはじまり
    2. 鎌倉幕府と朝廷
    3. 室町幕府と地方の社会
    4. 分裂から天下統一へ
  • シリーズ日本近世史
    1. 戦国乱世から太平の世へ 今ココ
    2. 村 百姓たちの近世
    3. 天下泰平の時代
    4. 都市 江戸に生きる
    5. 幕末から維新へ
  • シリーズ日本近現代史
    1. 幕末・維新
    2. 民権と憲法
    3. 日清・日露戦争
    4. 大正デモクラシー
    5. 満州事変から日中戦争へ
    6. アジア・太平洋戦争
    7. 占領と改革
    8. 高度成長
    9. ポスト戦後社会
    10. 日本の近現代史をどう見るか

第一章 戦国乱世

永禄10(1567)年、織田信長は美濃を攻略し、岐阜に拠点を移して「天下布武」の印章を使い始めます。

ここにおける「天下布武」は京都を核とする畿内の意味です。

しかし全体を見渡せば戦国大名の中にあってずば抜けた存在ではありませんでした。

藤木久志氏が述べたように、戦国の戦は領土拡張戦争だけでなく、食うための戦争でもありました。

人や物を奪う乱取が当然のごとく行われました。上杉謙信が関東に頻繁に兵を出したのも、冬場の飢饉を避けて戦場で食い繋ぎ乱取で稼ぐことにありました。

特に永禄初年から続いた凶作、疫病、飢饉で増幅されました。

永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて入京します。

実質的には信長の力がなければ成り立ちませんでしたが、形の上では室町幕府が再興され、頂点に義昭が座りました。

永禄12(1569)年、織田信長は「殿中御掟」九か条と「追加」七か条を定め、足利義昭の行動を縛りました。

永禄13年には五か条の「条々」を突きつけて義昭に飲ませます。

信長の撰銭令

永禄12年、信長が相次いで出した撰銭令により京都では銭による売買が忌避されます。

悪銭使用強制に京都の商人たちは銭での取引を拒み、米での取引を求めますが、信長は緩和措置をとりながらも米での取引を禁じて改めて銭での取引を命じました。

キリシタン禁令

キリスト教は天文18(1549)年にフランシスコ・ザビエルにより伝わりますが、天皇によるキリシタン禁令が出されるなどうまくいきませんでした。

しかし信長によって布教が認められて、京都での布教が黙認されます。

鉄砲の伝来

従来、天文12(1543)年に種子島に漂着したポルトガル人の所持していた鉄砲ニ挺によって伝来したとされてきました。

しかし宇田川武久氏が海外にも調査を広げて研究したところ、伝来は倭寇によるものとし、村井章介氏は、新たな史料を加え、問題点は残るものの、天文11年を鉄砲伝来の年とするのが蓋然性が高いとしました。

第二章 全国統一と朝鮮出兵

豊臣秀吉の検地は一般的に太閤検地と呼ばれます。

整ったのは天正17年に検地条目を定めた美濃での検地でした。

太閤検地は近世日本の土地制度・社会制度の根幹をなす石高制の基礎となった土地政策であり、歴史的重要性が極めて大きいものでした。

関白秀吉

天正13年、秀吉は内大臣に昇進します。その中、近衞信輔と二条昭実との間で関白職をめぐる論争が起き、仲裁に入った秀吉が自ら関白になることを提案します。

秀吉は近衛前久の猶子となり藤原姓の関白秀吉が誕生します。

そして天正14年に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられます。

刀狩令・海賊停止令

天正16年に三か条の刀狩令が出されます。その本質は「一揆」対策にありました。

刀狩令が出された同じ日に海賊停止令と呼ばれる三か条の法令を出します。

惣無事令

藤木久志氏が提唱した惣無事令は、喧嘩停止令、刀狩令、海賊停止令などとともに豊臣政権の政策基調をなすものとされました。

大名・領主への停戦命令、当地行所の暫定的安堵、公の領土裁定、不服従者の制裁を内容として、権限は関白任官によって秀吉が手にしたとされました。

しかし、こうした理解に疑問が呈されるようになっています。

「惣無事」は東国における講和の一形態である「無事」を踏まえて、新たに勢力下におくための働きかけの一つであり、「令」ではなく、永続性もなく、関白任官によるものでもありませんでした。

豊臣政権の財政基盤

山口啓二氏の研究によると、慶長3年時点の日本の総石高は1850万石余です。

豊臣家の蔵入地は222万石で、全体の12.2%でした。

これらに加えて金山・銀山からの運上と、金座・銀座などからの運上金銀でした。慶長3年時点の換算で37万石強ありました。

秀吉の貨幣政策

天正4年頃から精銭(善銭)の三分の一か四分の一の価値しかないビタ銭が姿を見せ、通用銭になっていきます。

同じく金銀の使用が浸透し始めます。

この時期の銭と金銀については、従来、銭の希少化と撰銭による混乱の中で金銀の使用が始まったと語られることが多いです。

これ以上に、織豊期、特に秀吉以降の領主財政の拡大と流通経済の拡大、金銀の増産も見落とせません。

第三章 徳川の天下

関ヶ原の戦いは、実質的には徳川家康の天下取りの戦いでしたが、名分のうえでは豊臣五大老の一人として石田三成らを誅伐する戦いであり、豊臣氏と徳川氏の戦いではありませんでした。

実質的な権力を掌握した家康は、西軍諸将の領地没収と東軍諸将への領地宛行を行います。

豊臣氏の蔵入地は実質的には60万石に減らされ、家康が論功行賞にあてた石高は783万石にのぼり、当時の日本全体の石高の約42%にあたりました。徳川氏は新たに159万石が蔵入地になりました。

慶長7年、家康は直轄地と私領の百姓についての定めを出します。代官や地頭の非分を訴える百姓の権利に制限を設けながらも、百姓殺害については、むやみに殺すことが禁じられました。

慶長7年に征夷大将軍宣下を受けた徳川家康は、豊臣政権の五大老の地位を脱し、武家の棟梁として頂点に立つ契機となりました。

さかのぼって慶長6年、東アジアから東南アジアへ渡航する商船に朱印状を発給して海外貿易の統制を始めました。

朱印船貿易の開始は、日本が東アジア貿易に国家的補償をもって参入することを宣言したもので、ポルトガルやスペインにとっては新たな競争相手の出現を意味しました。

慶長8年にポルトガル人のもたらす生糸を公定値段で一括購入する糸割符制を導入しました。糸割符は堺、京都、長崎、大坂、江戸の五か所で糸割符仲間が形成されます。

慶長10年。徳川秀忠が征夷大将軍となり、徳川家による政権世襲が天下に知らしめる出来事になります。豊臣方にとっては、大きなショックとなります。

江戸幕府成立直後の政治運営は、年寄・奉行衆・代官頭など簡素で、家康の強い意向に従い、遂行能力のある人物によって担われました。

慶長13年。関東を中心に永楽銭の通用を禁じ、ビタ銭による取引を命じました。街道筋における永楽銭とビタ銭の併存による混乱を回避することにあったと思われます。関東の銭通用圏を上方の銭通用圏に統合したのでした。

慶長14年。琉球が島津氏に与えられ、江戸時代における琉球の位置が定まります。家康はこれを機に明から冊封を受けていた琉球を介して明との国交回復を狙いますが、思惑通りにはいきませんでした。

朝鮮出兵後途絶えていた朝鮮との国交は対馬の宗氏と朝鮮との間で交渉が重ねられて己酉条約が結ばれ、一定の制約はありましたが、江戸時代を通じた基本的な枠組みができあがりました。

貿易重視策のもとでキリスト教の布教は黙認されてきましたが、慶長18年、伴天連追放が宣言されます。「大追放」と呼ばれる幕府によるキリシタン禁圧の本格化を示したものになりました。

慶長14年。後陽成天皇に仕える官女と若公家衆との密通が露見し、処罰が家康に委ねられます。この一件を通して家康は武家の手を朝廷奥深くまで入り込ませることに成功します。

慶長18年にいわゆる紫衣法度と五か条の公家衆法度を出します。天皇を介することなく公家衆に出されたもので、最終的には武家が公家を処罰する事を宣言しました。

大坂夏の陣直後の慶長20年に一国一城令と武家諸法度が出されます。

一国一城令は諸大名の軍事力削減を目的としたとされてきましたが、この政策は大名の有力家臣による城郭を否定し、大名による城郭独占を意味し、大名の権限の強化につながりました。

武家諸法度における最後の条目である大名城郭に関する規定と政務の器用を撰ぶべしとする内容は、幕府が大名の改易や領内支配に介入する根拠となりました。

慶長20年に禁中并公家中諸法度17条が出されます。史上初めて天皇の行動を規制したもので、幕末に至るまで幕府の朝廷支配のもっとも重要な法となります。

第四章 徳川の政権継承

元和5年に徳川秀忠は福島正則を改易し、武威を示しました。秀忠の軍事指揮権が西国大大名にも及ぶ事を明確にしました。

また大坂を幕府の直轄地とし、大坂城を核として親藩・一門・譜代による軍事配置が完成します。

大坂の直轄地化は、大坂の経済力を幕府が直接掌握し、西国諸大名を統制下に置こうとしたものでもありました。

元和6年。秀忠の娘・和子が後水尾天皇のもとに入内します。和子入内にあたり、警護の名目で武士を禁裏に配しました。幕府の役人が直接禁裏に入り込む初めての出来事でした。

元和9年。徳川家光が将軍となり、秀忠は大御所となります。本丸の将軍と西丸の大御所との二元的政治により軋轢や矛盾が生じましたが、年寄による連署奉書により解消されました。

寛永4年に幕府と朝廷の関係が揺らぎます。紫衣事件です。

禅僧への紫衣・上人号の勅許が家康の定めた法度に違反するとして勅許の無効を命じたのです。幕府法度が天皇の意志に優越することを再確認させる出来事でした。

これに対して後水尾天皇は譲位をします。後水尾天皇の突然の譲位は幕府にとっては痛烈な一撃でしたが、この機会をとらえて朝廷のあり方や院の行動に制限を加えるなどしました。

元和2年に徳川秀忠はキリシタン宗門のポルトガル船とイギリス船との領内での商売を禁じ、長崎・平戸への回航を命じます。同じ頃、日本国内で自由であった交易が平戸に限定されるようになります。

元和7年。オランダ、イギリス商館長に、雇用・奴隷に関わらず日本人の両国船での国外連れ出しを禁じ、軍需品の輸出や、海賊行為を禁じました。

第五章 江戸幕府の確立

徳川秀忠の死後、徳川家光が外様大名の加藤忠広と一門の徳川忠長を改易しましたが、代替わりの政治的緊張の中で、大名に対して断固たる姿勢で臨むことを示すことになりました。

将軍の直轄軍は、この時期に大幅に増強されました。加増は家光と旗本間の主従関係を再確認し、顕在化しつつあった旗本層の窮乏に対処するものでもありました。

老中宛法度の交付により定まった役割を持つ職としての老中が成立します。

寛永12年に林羅山が改訂された武家諸法度を読み上げました。

これにより1万石以上を大名とし、未満を旗本とする区分がほぼ確定します。

また、参勤交代が制度化されます。

参勤交代は幕府による大名統制策の一環として、徳川家へに臣従の確認と、大名の経済力を削ぐことが目的とされてきました。

この側面の他に、一定の軍事力が江戸に集結することから、武士階級が持つ強大な軍事力を誇示する役割の一端を担いました。

寛永13年。寛永通宝が鋳造され、交換基準が示され、悪銭の使用が禁止されます。しかし古銭の使用は一時的に認められました。

「鎖国」

寛永10年に出された条目は第一次鎖国令といわれてきましたが、鎖国令とするのは必ずしも適切ではありませんでした。内容の多くは従来の政策を確認するものだったからです。

寛永11年に出された肥前国長崎への三か条の禁制は、伴天連の日本渡航禁止、武具輸出の禁止、奉書船制度の確認と日本人の異国渡海禁止を定めたもので、鎖国の基本的な構成要素を備えていました。政策の周知がなされた点でも、この禁制は鎖国令と呼ぶに値しました。

1970年台半ば以降の研究で鎖国を東アジア史、東アジア世界のなかに位置づけることが強調され、豊かな鎖国像が描かれるようになりました。

しかし鎖国という外交体制はキリシタンとの対峙を重要な要素としていたことは見逃せません。

寛永の大飢饉

寛永15年頃から九州で牛疫の被害がでて、蝦夷駒ヶ岳の噴火で津軽では大凶作となり多くの餓死者が出ました。

寛永19年になると関東、信濃、西国も飢饉と言われるようになります。

飢饉の被害が拡大していくなか、倹約を中心とした幕府の飢饉対策は百姓成り立ちへ展開します。

田畑永代売買禁止令は独立した法令ではなく、寛永20年に出された飢饉対策のための二つの郷村仕置定のそれぞれの一か条にすぎませんでした。

また田畑永代売買禁止令は全国を対象にしたものではなく、極めて限定的でしたが、貞享4年に全国令になります。

1990年代までの教科書には「慶安御触書」が取り上げられていましたが、現在は教科書から姿を消すか、「百姓への御触書」「百姓の生活心得」と表現を変えて使われています。

近年の研究で慶安御触書を慶安2年に幕府が出したものとすることは許されなくなっています。

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