テーマ:明治時代(西南戦争から帝国議会)

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明治時代から現代までの人口推計は次のようになります。

  • 明治6(1873)年 33,300,700
  • 明治13(1880)年 35,957,700
  • 明治23(1890)年 41,308,600
  • 明治33(1900)年 46,540,600
  • 大正9(1920)年 55,963,100
  • 昭和25(1950)年 83,898,400
  • 昭和50(1975)年 111,939,600
  • 平成7(1995)年 125,570,200

西南戦争

新政府は近代化のための巨額経費を賄うため、農民から重い地租を取り立てました。兵役の義務も加わり、伝統的な生活様式を強制的に変えさせられたりしたため、しばしば一揆がおきます。

明治初年の農民一揆では古い生活を守ろうとする要求もありました。

明治初年の農民一揆の要求

  • 地租改正反対
  • 徴兵令反対
  • 小学校廃止
  • 廃藩置県による知藩事の罷免反対
  • 伝染病予防措置反対

士族も封建的な特権を奪われ、社会的地位が低下していき、経済的に行き詰まります。

政府に対する士族の不満が高まります。

  • 明治7(1874)年 佐賀の乱 民撰議院設立の建白書に名を連ねた江藤新平が佐賀で不平士族の首領となって反乱を起こします
  • 明治9(1876)年 熊本で敬神党(神風連)の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱
  • 明治10(1877)年 西南戦争 西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人による反乱

西南戦争で政府は徴兵制度による新しい軍隊を総動員しました。約8か月に及ぶ戦闘の結果、政府の勝利に終わり、不平士族の反乱は終わりをつげました。

西南戦争は時代の画期となりました。戦争のさなか木戸孝允が病死し、西郷隆盛が戦死、翌年に大久保利通が暗殺され、指導層は大隈重信、伊藤博文、山形有朋ら次の世代へ移ります。

民撰議院設立の建白

欧米列強と対抗するため立憲政治を行う必要性が政府内で早くから議論されました。

政府の要職は薩摩、長州出身などの政治家によって占められていました。

征韓論を巡る対立もあり、なかなか実行されませんでした。

征韓論が受け入れられず辞職した、板垣退助、後藤象二郎らは明治7(1874)年、民撰議院設立の建白書を提出します。

このなかで政府の一部の指導者による専制政治が国を危うくすると攻撃し、官民一体となって国を立て直すためには、議会を設立して国民を政治に参加させるべきであると主張しました。

これをきっかけに民撰議院設立問題を巡る論争が新聞や雑誌上で議論され、政府に不満を持つ士族を中心に、自由民権運動がすすめられました。

明治8(1875)年、大阪議会と板垣らによって以下が討議されました。

  • 漸次立憲政体樹立の詔
  • 法律制定の諮問機関として官選の元老院と設けること
  • 大審院での裁判制度の整備
  • 地方官会議を開いて地方議会の開設

自由民権運動

板垣退助は郷里の高知に立志社を設立し、青年に自由民権の思想や西洋の知識をひろめました。

西南戦争後には武力による反乱に代わって言論による自由民権運動が活発になります。

明治12(1879)年 府県会がひらかれます 

  • 地主や豪農など地方の有力者が議員に選ばれました
  • 地主や豪農たちの政治的関心が高まり、各地に民権派の政治結社(政社)が設立されました
  • 代表的なのが愛国社でした

1870年代末 米価をはじめとした農産物価格が上昇したため、農民の生活にゆとりができ、政治活動資金が豊かとなり、自由民権運動は農民にも広まります。

明治13(1880)年 全国の民権派団体の代表が大坂に集まって愛国社の大会を開きます。国会期成同盟を結成し、河野広中、片岡健吉が代表となり、8万7000名余の著名を集めて政府に国会開設を請願しました。

政府は集会条例を制定し、急進的な民権派の活動を取り締まりました。一方で、政府主導による立憲政治の実現に取り掛かります。

政府内では大隈重信と岩倉具視らが対立していました。

  • 参議・大隈重信はイギリスを模範とした議会中心の政党政治を主張
  • 岩倉具視らはドイツ流の君主の権限の強い憲法を作ることを主張

この頃、開拓使官有物払い下げ事件が起きて政府は批判を浴びます。北海道の官営事業を五代友厚らの商社に安い価格で払い下げようとした事件です。

また、悪化した財政の立て直しのため、政策を巡って政府内での対立が深まっていました。

明治14(1881)年 政府はドイツ流の憲法をつくる方針を固めました。国会開設の勅諭をだして明治23(1890)年に国会を開く約束をし、大隈重信を辞職させました。

大隈重信の辞職と開拓使官有物の払い下げが中止された事件は明治十四年の政変と呼ばれています。

これにより伊藤博文をはじめとする薩長派中心の政権が確立しました。

政府が国会開設を約束すると、板垣退助は国会期成同盟を母体とする自由党を結成します。

明治15(1882)年 大隈重信を党首とする立憲改進党が発足します。

自由党の方が急進的でした。立憲改進党はイギリス流の穏健で着実な議会政治を理想としていました。

政府系の政党として福地源一郎らによる立憲帝政党が作られましたが、さした活動をせずに解散します。

私擬憲法

1870年代末から1880年代初めには自由民権派をはじめとして民間や政府関係者が己の理想とする憲法案を起草します。私擬憲法と言われます。

この時期のものとしては40編以上が明らかになっています。

いずれも立憲君主制を定め、国民の権利と自由をみとめていました。議会の選挙制度では制限選挙を採用していました。

交詢社(福沢諭吉の門下生を中心とする)のように、イギリス流の二院制の議会による議会政治を取り入れ、君主は行政権を政府にゆだね、政府が議会の支持にもとづいて政治を運営するという構想が主流でした。
植木枝盛「日本国国憲案」や立志社「日本憲法見込案」では、君主が行政権をにぎり、一院制の議会で人民が立法権をもち、人民の自由と権利を大幅にみとめる構想もありました
君権主義のものもありました

しかし、政府は自由民権運動を厳しく取り締まったり、民権派の活動家を官吏にとりたてるなど、民権運動の切り崩しを図ります。

民権派も農村の不況とともに運動資金が苦しくなると内部対立が生じるようになります。

一部の急進派は直接行動によって政府に対抗しようとします。

明治15(1882)年 福島事件 県令が住民に重い労役や負担金をかして進める道路造成事業に反対した農民や自由党員が検挙されます

これに続いて加波山事件、秩父事件など、東日本で自由党員らによる暴発事件がおこりました。

自由党は秩父事件の直前に解散し、立憲改進党も活動を停止してしまいます。

自由民権運動は一気に衰退することになります。

国会開設が近づくと、民権派は政府に対抗する政党をつくろうとしますが、政府は保安条例を発して多くの民権運動家を東京から追放して運動を抑え込みます。

帝国議会

明治14(1881)年の政変を通じて、政府はドイツ流の君主権の強い憲法をつくる方針を固めました。

憲法調査の為に明治15(1882)年、伊藤博文らをヨーロッパに派遣します。

グナイスト・モッセ・シュタイン・スペンサーの講義を聞き、ドイツ、オーストリア、イギリス、ベルギーなどの制度や立憲政治を研究しました。

ヨーロッパの政治家や学者は、明治維新以来の日本政府の改革が急進的すぎると懸念し、日本には立憲政治は早すぎると忠告しました。

伊藤博文らは翌年帰国し、明治17(1884)年に、華族令を制定し、貴族院をつくるための華族制度を整えました。

明治18(1885)年、太政官制度にかわって内閣制度を制定しました。

伊藤博文が初代内閣総理大臣となり、閣僚の大部分が旧薩摩・長州の出身でした。

大日本帝国憲法

伊藤博文は伊藤毅、伊藤巳代治、金子堅太郎らとととに、ドイツ人顧問ロエスレルらの助言を得て、憲法の草案作りに取り掛かります。

大日本帝国憲法(明治憲法)は明治21(1888)年に新設された枢密院で審議され、明治22(1889)年2月11日に発布されました。

大日本帝国憲法は天皇がつくって国民に下賜するという形式の欽定憲法でした。

立憲君主制の基本原則も明記され、国務大臣は天皇に責任を負い、議会に対する責任は不明確でした。

帝国議会は、貴族院と衆議院の二院制でした。

  • 貴族院 皇族、華族、多額納税者、国家の功労者から選ばれた議員(勅撰議員)
  • 衆議院 国民から公選された議員

国民の義務

  • 兵役、納税
  • 一方で言論、出版、集会、結社、信教、請願、官吏任用などの自由と権利
  • 所有権、信書の秘密の不可侵

皇室典範では皇位の継承、天皇の即位式などが規定されました。

憲法につづいて民法や商法などの法典も作られました。

民法は法学者ボアソナードの助言により、フランスの影響を受けたものでしたが、、日本の商慣行に合わず、実施が一時延期されます。民法典論争と呼ばれます。

帝国議会が開かれる

明治23(1890)年、第1回帝国議会が開かれ、立憲自由党と立憲改進党の政党勢力(民党)が衆議院の過半数を占めました。

民党は国民生活安定のため、経費の削減、地租軽減を主張し、第1次山県有朋内閣に対抗します。

第2回帝国議会でも予算案審議を巡って対立が続き、第1次松方正義内閣は衆議院を解散します。

明治25(1892)年、第2次伊藤博文内閣のときに、政局の安定を求め、政府と自由党が歩み寄りをすすめ、協力して政治を運用するようになります。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会)
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
  24. 江戸時代(幕末)
  25. 明治時代(明治維新)
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