テーマ:宗教史(古代~近代)

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古墳時代から大和王権

渡来人と漢字

朝鮮半島や中国との交渉が盛んになると、大陸から多くの人が渡ってきました。ヤマト政権は進んで受け入れます。

5世紀までに秦氏(はたうじ)、漢氏(あやうじ)が渡来し、5世紀末から百済が高句麗に圧迫されると、さらに人々が渡来して来ます。こうした人々を朝廷では帰化人と呼びました。

彼らは、畿内とその周辺に住み、朝廷の文筆・財政など行政実務、鍛冶・武器製造・機織・製陶・土木・建築などの生産部門、動物の飼育などで大きな貢献をします。

6世紀にはいると中国の新しい文化が百済経由で伝えられました。儒教や医・易・暦などとともに仏教が伝わります。

5世紀から6世紀の大刀や鏡の銘文を見ると、日本語の表記に当てはめて用いる方法がすでに行われていました。

論点
  • 2012年阪大:日本ではどのようにして文字を取り入れ使いこなしてきたのかを、5世紀から10世紀にいたる文字使用の歴史について問われました。
  • 2004年東大:古代の日本列島に漢字が伝えられ、文字文化が広まっていく過程の歴史的背景について問われました。
  • 1986年東大:日本の古代国家の形成の時期である1世紀から8世紀にかけて、国際関係における文字の受容と利用、国内統治における文字の利用を考慮しながら、文字の受容と使用の発展について問われました

仏教伝来

6世紀にはいると中国の新しい文化が百済経由で伝えられました。儒教や医・易・暦などとともに仏教が伝わります。

仏教は大王・豪族に受け入れられ、一般民衆にも普及していきます。

土木や建築、金工など多くの新しい技術ももたらされます。

百済の聖明王からの公式な仏教伝来については二説あります。552年(壬申年)=日本書紀の説と538年(戊午年)です

後者は元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた「元興寺縁起」や聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」によるもので、現在はこちらの説が有力です。

南朝の梁⇒百済⇒倭 のルートで、儒教の五経博士などの渡来と共通しています。

なお、民間へはこれ以前に伝わっていました。

論点
  • 2016年阪大:仏教の伝来は日本の歴史に大きな影響を与えましたが、6世紀における仏教の受容過程について問われました。

祭祀

古墳時代には各地で社がつくられました。

  • 伊勢神宮:皇室の祖先神の天照大神を祀る
  • 出雲大社:大国主神を祀る
  • 住吉大社:海神を祀る
  • 大神神社:大和の三輪山を礼拝する

朝廷による地方統一が進むにつれ、朝廷の神話の中に位置づけられるようになります。

6世紀には大王家を中心として「帝紀」「旧辞」が成立します。

玄界灘の沖ノ島は太古からの祭祀遺跡で、大和王権の大陸との通交の要地に位置していますので、祭祀は海上交通にかかわるものと考えられています。

沖ノ島は宗像大社の神領(御神体島)で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座しています。

飛鳥時代

仏教

6世紀に伝わった仏教は、はじめ豪族たちに信奉され、7世紀初めの飛鳥時代には、畿内の豪族たちが祖先の供養、病気を治すため氏寺を建てました。

  • 蘇我氏の飛鳥寺法興寺
  • 聖徳太子の四天王寺斑鳩寺法隆寺
  • 秦氏の広隆寺

聖徳太子の仏教の師は、高句麗の僧・慧慈と言われます。聖徳太子みずからまとめたとされる三経義疏(さんぎょうのぎしょ)は法華経、維摩経、勝鬘経の注釈書で、手本は南朝の梁にあると言われます。

神祇制度

天武天皇は伊勢神宮を中心とする神祇制度を整備します。大嘗会の制を確立します。

薄葬令

7世紀には古墳唐氏寺が権威の象徴となりました。

氏寺は畿内を中心に、九州北部から北陸、関東北部までおよぶようになります。

646(大化2)年にいわゆる薄葬令を出して、古墳の大きさを制限します。

これは古墳が豪族の身分をあらわす意味を持たなくなっていたからです。

7世紀末か8世紀初めと言われる飛鳥地方の高松塚古墳は身分の高い人のものと思われますが、小さな円墳でした。

この頃に仏教による火葬の風習が広まり、古墳は姿を消していきます。

奈良時代

聖武天皇の仏教政策

聖武天皇は藤原広嗣の乱後に都をたびたび移しますが、社会不安が深刻になりました。

天皇は仏教の力で政治・社会の動揺を鎮めようと考えます。

  • 741(天平13)年、国分寺建立の詔
  • 743(天平15)年、盧遮那大仏造立の詔

都が平城京に戻ると、東大寺の大仏造立の事業は紫香楽宮から平城京に移され、10年後に大仏開眼供養が行われました。

民間での直接布教は禁じられましたが、行基のように、農民のための灌漑用水や交通施設を作るなど社会事業を行いながら布教する僧も現れました。

小説の紹介

鑑真を扱った小説。

平安時代

新仏教

桓武天皇は仏教勢力が政治に関わることを恐れて、平城京の寺院を平安京に移さず、監視を厳しくしました。

この中で現れたのが最澄と空海でした。

2人とも南都で学んだ後、804(延暦23)年に唐に渡り、最澄は天台宗、空海は真言宗を学んで帰国します。

最澄は桓武天皇の庇護を受けて南都仏教と激しく対立しながら、戒律を授けるために戒壇を新たに比叡山に設立することを願い、延暦寺を建てます。

空海は嵯峨天皇に願い、高野山に金剛峯寺を建て、京都に教王護国寺(東寺)をたまわり、密教の根本道場とします。

天台宗でも最澄の死後に円仁、円珍によって密教化が進みました。

真言宗の密教を東密、天台宗の密教を台密と言います。

空海

漢文学にも通じ、性霊集を残しました

書道では嵯峨天皇、橘逸勢とともに唐様の名手とされ、三筆に数えられます。

教育では綜芸種智院を庶民教育のために開きます。

旱魃に悩まされる讃岐農民のために、満濃池も築きました。

怨霊信仰

平安時代になると御霊(怨霊)の時代といえる時代が始まります。

疫病や天変地異が起きると、政争に敗れて非業の死を遂げた者の祟りと考えました。一種の支配者批判であり、まともな政治を求める批判と願望が示されていました。

政治批判の形になると、支配者は怨霊と災厄の因果関係を否定しようとしました。

しかし結局は国家の支配者が、国家として祟り鎮めをすることになります。それが「御霊会」です。

最初の御霊会は貞観5(863)年に京都の神泉苑で行われ、早良親王など六人の霊が「六所御霊」として祀られました。

怨霊信仰については、義江彰夫「神仏習合」小松和彦「呪いと日本人」が詳しいです。

北野天満宮が建てられたのは菅原道真の霊を鎮めるためでした。

京都の祇園社(八坂神社)の御霊会は疫病流行を牛頭天王の祟りとし、多くの矛(鉾)をたてて鎮めようとしました。現在の祇園祭の山鉾巡行の由来です。

国風文化

浄土信仰

奈良時代には仏教と在来の神祇信仰が混ざる神仏習合が始まります。

神仏習合については、義江彰夫「神仏習合」が詳しいです。

平安時代には本地垂迹説が生まれ、神々の本来の姿は仏であるとされ、特定の仏と結びつけられます。

南都仏教、天台宗、真言宗など有力寺院の荘園が地方に増えていくと、荘園領主の鎮守神を祀り荘民の心のよりどころとするものが多くなりました。

山岳信仰と仏教、道教が結びついて修験道が発達します。

仏教界でこうした動きのある中、戦乱や災害、律令政府の無力という現実は、仏教の衰えを感じさせ、末法思想を生み出します。

末法思想では1052(永寿7)年が末法の初年にあたるという考えになります。

これに阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生することを理想とする浄土教が広まります。

  • 空也 市聖 西光寺を建立(中信が六波羅蜜寺に改名)
  • 行円 横川の皮仙 行願寺
  • 源信…「往生要集」
論点
  • 2011年京大:平安時代における浄土教の発展・広まりについて段階的かつ具体的に問われました。
  • 2002年東大:平安時代に日本に伝来し広まった密教や浄土教の信仰は、人々にどのように受け入れられていったか。10世紀以降平安時代末に至るまでの、朝廷・貴族と地方の有力者の受容のあり方について問われました。
  • 2000年筑波:11世紀から14世紀の仏教について、「選択本願念仏集」「一遍聖絵」「中尊寺金色堂」「頂相」の語句を用いて述べるよう求められました。
  • 1994年筑波:10世紀から13世紀における浄土信仰の展開について「他力本願」「市聖」「日本往生極楽記」「選択本願念仏集」の言葉を用いて回答するよう求められました。
  • 1984年一橋:平安時代に浄土教の信仰がひろがった事情を、社会的背景と教理とを結びつけて問われました。藤原頼通の建立した有名な寺院を例にあげて、浄土教の影響が美術(建築・彫刻・絵画)の領域に及んでいることを問われました。神仏関係についての新しい説明の仕方を表現する歴史的用語を漢字で記し、その内容を具体例をひとつあげるよう問われました。

国風美術

貴族の阿弥陀信仰をあらわす阿弥陀堂建築としては次があります。

  • 法成寺御堂…藤原道長によるが現存しない
  • 平等院鳳凰堂…藤原頼通の宇治の別荘を寺にしたもの

貴族の住宅として日本風な寝殿造の建物が造られます。

書道の和様が発達します。和様の三跡は次の三名です。

  1. 小野道風
  2. 藤原佐理
  3. 藤原行成

服装も国風化が進みます。

  • 男子 正装は束帯・衣冠、平服は直衣・狩衣
  • 女子 正装は十二単衣、略服は小袿

鎌倉時代

仏教

モンゴルとの戦争には神仏も動員されました。神仏の祈祷を主導したのは亀山上皇が主導する朝廷でした。

モンゴル降伏の祈祷を主に担ったのは鎌倉仏教ではなく旧仏教でした。

鎌倉仏教は鎌倉時代の仏教を意味しますが、一般には新仏教をさして用いられます。

浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元です。

これに旧仏教を革新した法相宗の貞慶、華厳宗の明恵、律宗の叡尊も含まれます。

黒田俊雄氏が提唱した顕密体制論によると中世国家と仏教勢力の癒着構造は旧仏教が正統派と位置付けられました。

従来は新仏教の祖師の思想が高く評価されてきましたが、顕密体制論では旧仏教の影響力の大きさに力点が置かれます。

旧仏教が依然として鎌倉時代の仏教の主流だったというのは、研究者の間で広く認められるようになります。

新仏教のうち浄土宗、時宗は勢力を伸ばしますが、法華宗、浄土真宗、曹洞宗が多くの支持を獲得するのは室町時代後期の戦国時代を待たなければなりませんでした。

念仏

平安時代の末期から戦乱や飢饉の影響で、末法思想が広まります。

武士の家出身の法然は浄土宗の教えの中から、南無阿弥陀仏の念仏による阿弥陀仏の救いを信じる専修念仏を重視しました。

法然の教えは源平の争乱後の社会に広まりました。

法然が専修念仏を世に問うと貴族や武士の信仰を獲得します。法相宗の貞慶は幅広い社会活動を展開し、栄西は禅宗を広めました。

こうした動きに比叡山や興福寺などが危機感を抱き、建永の法難により法然は讃岐に流されます。浄土宗は建永の法難を経て急速に広まりました。

貴族の家出身で法然の弟子である親鸞は、煩悩のふかい人間(悪人)こそ阿弥陀仏が救おうとする人々とする悪人正機の教えを説きました。

親鸞は越後に流罪となると、その後は東国で農民の間に教えを広めました。

武士の家出身の一遍は全国を巡り、布教方法に工夫を凝らし、札をくばって念仏をひろく勧めたり、踊念仏を行ったりしました。

禅宗

宋に渡って禅宗を学んだ栄西は坐禅による修行で悟りがひらかれると説きました。

念仏が阿弥陀仏による他力救済であるのに対して、自力救済を強調しました。

栄西は北条政子や源実朝の信頼と帰依を受け、寿福寺の長老となり、幕府の援助を受けて京都に武家の寺である建仁寺を建立します。栄西は喫茶の習慣を広めたことでも知られます。

道元は坐禅そのものが悟りの境地だと説きました。

幕府は禅宗を保護して、宋から多くの禅僧を招き、鎌倉に建長寺、円覚寺を建立します。

また、鎌倉では「仮名法語」によって武士に禅宗を伝える工夫がなされましたので、禅が武士に着実に根をおろしていきました。

禅宗の厳しい施行も武士の気風にあい、海外の新文化を歓迎する風潮もあって幕府は禅宗の保護に力を入れたと思われます。

法華宗(日蓮宗)

関東の漁村に生まれた日蓮は東国を中心に法華宗(日蓮宗)を広めました。

南無妙法蓮華経の題目を唱えることで法華経に記された真理が全ての人々と国家を幸福にすると説きました。

この主張は幕府に受け入れられず、流罪にあいます。

幕府の迫害に関わらず、教えは関東の武士層を中心に広まります。

新仏教と旧仏教

旧仏教勢力は強く反発し、旧仏教を保護する朝廷は禅宗の布教をやめさせようとします。

法然、親鸞を流罪にします。

新仏教はこうした迫害を乗り越えて鎌倉時代の末期には宗派として形を整えます。

  • 浄土宗…法然
  • 浄土真宗…親鸞
  • 時宗…一遍
  • 臨済宗…栄西
  • 曹洞宗…道元

法然、親鸞、栄西、道元、日蓮は延暦寺で天台宗を学んでいます。

多くの教えの中から一つの救いを得る方法を念仏、禅、題目に求めたのでした。

平易な教えだったため、庶民、武士、貴族に至るまで多くの人々に広まりました。

旧仏教側でも新たな運動が起きます。

旧仏教の復興に力を入れたのが、

  • 貞慶(解脱)…法相宗
  • 高弁(明恵)…華厳宗

律宗…叡尊、忍性(良観)

山岳信仰を基とした修験道も力を伸ばします。

神道

伊勢神道…伊勢の外宮の神官・度会家行により神道理論が形成されます

室町時代

北山文化

仏教

貴族に保護されたいた旧仏教の天台宗、真言宗が貴族の没落に伴い主流的地位を失います。

かわって新仏教が教団を形成し、武士、農民、商工業者に信仰を広めます。

足利尊氏が夢窓疎石に帰依していらい、臨済宗は将軍家の保護を得てさかえました。

足利義満は南宋にならって五山・十刹を整え、南禅寺を五山の上に置きました。

五山につぐ禅寺を十刹としました。

義堂周信、絶海中津らの五山の僧は政治・外交の顧問となり、日明貿易の発展とともに学問・文芸の中心となります。

宋でおこった朱子学が研究され、漢詩文を中心とする五山文学が生まれ、五山版とよばれる出版が行われます。

宋・元の水墨画を描き、禅の境地をあらわしました。明兆、如拙、周文らが代表です。

東山文化

仏教

鎌倉仏教各宗が武士、農民、商工業者などで信仰を得て、都市や農村に広まっていきました。

禅宗の五山は幕府の衰退とともにおとろえましたが、地方布教を行った禅宗諸派(林下)は、武士、庶民の支持を得て広まりました。

林下の代表は、曹洞宗の永平寺、總持寺、臨済宗の大徳寺、妙心寺などです。僧として代表的なのは、大徳寺の一休宗純です。

浄土宗は公家との結びつきを深め京都で勢力を拡大し、東国へ布教活動を広げます。

浄土真宗(一向宗)は農民、交通・商業・手工業者に受け入れられました。本願寺派の蓮如の活動により、北陸、東海、近畿地方の農村に根を下ろしました。

日蓮宗は西国方面へ進出し、貴族や都市民の信仰を集めます。

神道

唯一神道 吉田兼倶が伊勢神道に対抗し、神道を中心に儒学・仏教を結合しようとしました。

江戸時代

明治時代

廃仏毀釈

文明開化の風潮の中で、日本の伝統的文化や生活様式がしりぞかれるという傾向も現れました。由緒ある貴重な文化財が売り払われたり、破壊されたのです。

奈良の興福寺の五重塔が、わずか25円で売り出される事件もおきました。

明治初年に来日したドイツ人医学者のベルツは、日本人が日本固有の文化的伝統や歴史を軽視し、古いものをすべて野蛮だと考えるありさまにおどろいています。

宗教面で一時全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化を図ろうとして、神仏分離令を発して神道を保護したためでした。

明治3(1870)年、神道国教化をめざして大教宣布をおこない、国家的神社制度・祝祭日を制定します。しかし、神道国教化は成果をあげるにはいたりませんでした。

廃仏毀釈については、安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」が詳しいです。

キリスト教については旧幕府の方針を継承していたため、きんしされました。長崎の浦上や五島列島のキリシタンが捕らえられ、監禁されるなどの事件が起きます。

これに対して諸外国が抗議したため、明治6(1873)年、キリスト教を解禁し、宣教師による布教活動が盛んになります。

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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