テーマ:鎌倉時代(蒙古襲来)

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北条時宗

得宗による権力の確立は、得宗家に仕える「御内人」という新しい権力グループを産みます。

御内人のトップを内管領といい、北条時宗の時代は平頼綱でした。

御内人vs北条一門・安達氏の対立が北条時宗時代の幕府の政策が大きく揺れる原因となります。

1266(文永3)年に北条時宗は六代将軍宗尊親王を京都に追放します。時宗は将軍の後継を押さえたうえで、軍勢を動員して将軍に脅しをかけた事件でした。

貨幣経済の浸透

この時期、貨幣経済が浸透し始めていました。鎌倉幕府の経済は土地=農地をベースにしていましたので、その経済は農業を主体とし、モノの売買を主体とする貨幣経済には対応していませんでした。

鎌倉末期になると中国からのきらびやかな具足などがもてはやされます。銭を得る手段のない御家人たちは、土地をカタに銭を借りますが、返せなくなり土地が取られる御家人が続出します。

1267(文永4)年に御成敗式目の追加法が出されます。のちの徳政令の原型と言える内容です。

しかし、土地政策はこの後の20年間で二転三転します。

二月騒動

元の脅威が高まる中で、得宗へのさらなる権力集中が進められます。時宗の兄・北条時輔を排除する二月騒動が起きます。二月騒動では北条時輔だけでなく、北条一門の名越氏がターゲットになります。これで北条一門の反対勢力が一気に消されます。

日宋貿易

鎌倉幕府成立の頃、モンゴルのチンギス=ハンによるモンゴル帝国が発展していました。

東アジアでは中国北部の女真族による金を滅ぼし、朝鮮半島の高麗を服属させました。

平氏政権の頃から日本と交渉のあったのは南宋(宋)です。

南宋からは唐物と呼ばれる書籍、香料、薬品、陶器が輸入されました。日本からは金、水銀、硫黄、木材などが輸出されました。

日本国内の政治が安定すると、日宋貿易への関心が高まり、国内で港湾、航路が整えられます。唐船の往来が頻繁になり、大量の唐物が鎌倉にもたらされます。

平安中期から南北朝前期には遣唐使・遣明使のような定期的な国家使節の往来がありませんでした。民間貿易船が交流を担っていたため、中央の史料に記録されることが多くありませんでした。

そのため鎌倉・南北朝期の文献史学者にとって、日宋・日元貿易は不可知の世界でした。

状況を変えたのが、1970年代以降の考古学の成果です。

平安・鎌倉期の博多について文献史料から11世紀末以降に宋海商が居住していたことが知られていました。研究史上は博多綱首と呼ばれます。

鎌倉前期には九州の寺社や荘園と帰属関係を結んでいました。また中央の大寺社や権門は九州の寺社を末寺・末社化したり、博多周辺に荘園を獲得したりして、貿易に関与するツテを得ます。

これにより博多綱首と九州の寺社・荘園と中央の大寺社・権門の三者が組織的に結びつき、効率的な貿易品の流通が実現します。

元寇(蒙古襲来)

13世紀後半、元に改めたモンゴル帝国の皇帝フビライ(忽必烈)は、日本に朝貢を要求します。

モンゴルは突然攻めてきたわけではなく、日本に死者を派遣して外交交渉によって日本に服属を求めていました。

元の外交政策は杉山正明氏をはじめ東洋史の研究者の研究により、元は日本との通交を求めており、居丈高に脅してきた訳ではないことが分かりました。

最初のモンゴルの使者は1266年8月でした。これを皮切りに計3回もしくは4回使者が鎌倉幕府や朝廷と交渉を行っています。

これとは別に高麗軍の三別抄や南宋からも使者があり、太宰府を舞台に東アジアの外交戦が繰り広げられました。

西国に所領を有する御家人に異国に対する防御と国内の悪党鎮圧を命じます。

文永の役

1274(文永11)年、元は徴発した高麗の軍勢とともに、対馬、壱岐を侵略し、博多湾に上陸します。

太鼓、どらを鳴らし、毒を塗った矢、火薬を使った戦いに、一騎打ちを得意とする御家人は苦戦します。

日本の主力は太宰府に退きます。元軍も海を渡って不慣れな戦いによる損害、内部対立があり、兵を引き上げます。

文永の役では暴風によって1日で幕を閉じたと考えられてきましたが、それが撤退の真の理由かは疑問が残ります。

季節的に暴風は台風ではない可能性が高いことや、1日での撤退ではない可能性など、究明の余地があります。

文永の役の後、恩賞は合戦の翌年に行われました。

文永の役後、モンゴルからの使者に日本側の態度は硬化します。

さらに鎌倉幕府は積極的な動きを見せ、異国征伐を計画しました。

しかし、実行に移されることはありませんでした。

国内では同時にモンゴル再来襲に備えた準備が進められており、両立が困難だったためと考えられています。

鎌倉幕府は異国警備番役を実施し、石築地と呼ばれる石垣の築造を行いました。

両統迭立が始まる

文永の役と弘安の役の間には7年の歳月がありますが、この時期の権力闘争や、朝廷を巻き込んだ争いが鎌倉幕府崩壊の序曲になります。

元と戦った西国の御家人は不満を募らせ、怒りの矛先は安達泰盛に向かいます。

こうした中に持ち上がったのが、1275(建治元)年の京都の政変です。皇統が亀山系(大覚寺統)から後深草系(持明院統)へ移り、両統迭立が始まります。

弘安の役

1281(弘安4)年、南宋を滅ぼしたフビライは前回の数倍の軍勢を博多湾に送り込みます。

文永の役後、南宋が滅ぼされ、弘安の役が実行されました。弘安の役は日本攻略そのものが目的でした。

しかし博多湾一帯に築かれた防御用の石塁と大量に動員された武士に悩まされて、暴風雨も重なり、大損害をうけて兵を引き上げます。

この後にも再び幕府は異国征伐が計画されましたが、すぐに延期命令が出されて実行はされませんでした。

幕府は3度目の襲来に備えて九州の御家人に課していた異国警護番役を強化し、全国の荘園・公領から非御家人の武士も動員する体制を築きました。

西国の支配を強化し、九州の政務を行うために鎮西探題も置きます。

弘安の役の恩賞は難航しました。結果として、幕府は元寇に対する御家人の活躍に十分には応えられませんでした。没収地がなく、恩賞にあてる所領の確保が難しかったためです。

小説の紹介

元寇(蒙古襲来)が舞台の小説。

元寇後の幕府と朝廷の関係

朝廷と幕府の関係は承久の乱以降幕府優位で推移しましたが、幕府は朝廷の役割を尊重していました。

同じ武士でも朝廷や貴族・寺社(=本所)の配下にある者には関与しませんでした。

幕府と朝廷・本所の住み分けがはかられていたのです。

しかし対外戦争という非常事態のもと、鎌倉幕府は住み分けを超えて、朝廷や本所の領分に関与し始めました。

さらに権力集中が進み、得宗専制体制の強化が図られました。

しかし得宗には難問が山積していました。文永の役・弘安の役の恩賞問題と、朝廷と本所の領分に関与したことにより、管轄下になかった問題が持ち込まれるようになったのです。

この後には各地の荘園における悪党問題や、皇位継承問題も持ち込まれるようになります。

御家人のみならず本所一円地の住人を含めた全ての武士を鎌倉政権下に組織する試みがされましたが、達成することなく滅亡を迎えます。

鎌倉文化

宗教史

徳政と悪党

弘安7(1284)年、執権・北条時宗が亡くなります。時宗の死によって安達泰盛と平頼綱の対立が深まり霜月騒動になります。

継いだのは北条貞時でしたが、執権就任まで3ヶ月の空白があり、その間に時宗死後の政局をめぐる事件が起きました。

北条貞時の時代を得宗専制と呼びます。幕府の政治も、これまでの御家人を基盤とした執権政治から、北条家の家督をつぐ得宗家による得宗専制政治へ移っていました。

北条家の家督を得宗と呼びます。歴代の得宗は次の9人です。全員「時」の字がつく名前です。

  1. 北条時政
  2. 北条義時
  3. 北条泰時
  4. 北条時氏
  5. 北条経時
  6. 北条時頼
  7. 北条時宗
  8. 北条貞時
  9. 北条高時

霜月騒動

北条貞時の母は安達泰盛の娘であり、乳母の夫が平頼綱でした。外戚系と乳母系がファミリー内で争っていたのです。

幕府によって推進された安達泰盛の改革政治は弘安徳政と呼ばれます。

安達泰盛が強力に改革政治を推し進めれば、不満を持つものが現れます。

内管領の平頼綱が得宗の北条貞時に訴え、弘安8(1285)年11月に塔辻周辺で合戦となり、安達泰盛、宗景親子らが討死ないし自害します。

この事件を霜月騒動と言います。騒動は全国的な規模の広がりを見せ、事実上の内戦とも言えました。

このあと幕政を主導したのは内管領の平頼綱でした。これに伴い、得宗家の家人である御内人の力が強まりました。

安達泰盛による鎮西神領・名主職回復令は、異国と戦う神々や御家人の体制を立て直すために、不知行となっている所領を取り戻すことを認めるものでしたが、霜月騒動以後は真逆の法が発令されます。

鎮西神領・名主職回復令は現地に相当の混乱を引き起こしたようです。不知行所領の取り戻しを認めることは、所領を現に有している者を排除することになるからです。

しかし、平頼綱(平禅門)の専横は長く続かず、北条貞時が立ちはだかり、自害します。

徳政令

当時の相続は分割相続のため、中小の御家人の暮らしは苦しいものでした。

以前は鎌倉幕府滅亡の原因をモンゴル戦争に求めるのが一般的でした。この見方は修正されつつあります。

徳政令は悪法ではなく、正当と認識されていたことが明らかにされました。またモンゴル戦争に対する恩賞は少なかったのは確かですが、窮乏の主要因ではなく、窮乏化せざるを得ない分割相続の構造がありました。

そうした状況を改善するため、御家人の領地の質入れや売買を禁じ、幕府は1297(永仁5)年にすでに質入れしたり売られたりした御家人の領地を無償でもとの持ち主へ返させる永仁の徳政令を出しました。

中世社会一般に作用していた徳政令・徳政は御家人に限定したものではありませんでしたが、永仁の徳政令は適用資格を御家人に限定したものでした。

御家人は相続を分割相続から嫡子に全所領を相続させる単独相続に切り替えたり、地縁的な結びつきを強めて対応しました。

畿内周辺では悪党と呼ばれた新興武士が荘園の年貢の請け負いや高利貸活動(借上(かしあげ))を行い富を蓄えました。

悪党はしばしば農民と争い、武力で荘園を荒らしました。荘園領主や幕府とも対立するようになります。

また、勢力下に御家人を組み込んだり、朝廷や寺院の勢力と結びつきを持ち力を伸ばしました。

家職の意識

幕府の中心である得宗家は北条時宗、貞時、高時の系統に継承されました。

北条一門では名越、大仏、金沢氏などの得宗を支える家が評定衆、六波羅探題、寄合衆などを歴任しました。

源氏一門の足利、武田、小笠原氏や将軍を支えた三浦、安達、佐々木氏などが有力御家人の家を形成しました。

政所や問注所、引付などの奉行人も二階堂、三善氏らが形成しました。

武士に家職の意識が生まれるなか、継承を巡って嫡子と庶子の対立が起きました。武士の系図が多く書かれるようになったのは、家職に関わる伝統を探っていた結果でした。

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来) 本ページ
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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