源経基と六孫王神社の参拝録(京都府京都市)清和源氏発祥の宮

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六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)

羅城門を見て、東寺の左側(西側)の道を歩きながら、京都駅へ戻る途中で立ち寄った。

電車の高架が近くにあり、趣も何もない感じの場所だった。清和源氏ゆかりの神社でなければ、素通りしていたと思う。

妙に狭い感じがしたのは、2度にわたって鉄道用地として買収されたからである。1回目が明治44年(1911年)国鉄東海道本線のため。2回目が昭和39年(1964年)新幹線の用地となったためである。同じような例は他にも数多くあるが、残念な気持ちになる。

源氏三神社の一つ

清和源氏始祖の源経基(経基王)を祭神とする。源経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で、天皇の孫であることから「六孫王」と称される。六孫王神社は六ノ宮権現とも呼ばれた。

多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。

境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地とされ、応和元年(961年)源経基の臨終の際に、龍神となって邸内の池から子孫の繁栄を見守るので、この地に葬るようにと遺言したとされる。

応和3年(963年)嫡子の源満仲が現在の場所に源経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが始まりとされる。本殿後方に残る石の基壇が経基の廟と伝わる。

鎌倉時代に源実朝の妻・本覚尼がこの地に源実朝の菩提を弔う遍照心院(大通寺、通称:尼寺)を建立し、鎮守社となる。大通寺は塔頭7か寺を数えた。

戦乱などにより社殿を失い、源経基の墓所だけが残された。

元禄13年(1700年)江戸幕府により社殿の再興が進められた。元禄14年(1701年)には正一位の神階と権現号が授けられた。宝永4年(1707年)に社殿の再興が終了する。現在の社殿は当時のもの。

六孫王神社は江戸幕府の滅亡により衰退する。また明治初期の神仏分離により大通寺と分離した。 神仏分離については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しい。

境内に六孫王誕生水があったが今はない。源満仲の産湯に使われたとされる。

由緒

六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

http://www.rokunomiya.ecnet.jp/001-yurai.html

源経基(みなもとのつねもと)

生没年不詳だが、一説には延喜17年(917年)~応和元年(961年)。

平安時代中期の武将で清和源氏の祖である。

清和天皇の第6皇子貞純(さだずみ)親王の長子。母は右大臣源能有(よしあり)の娘という。六孫王(ろくそんおう)と称された。正四位上、右馬頭。

承平年間(931‐938)武蔵介として赴任し足立郡司武蔵武芝と争う。天慶1年(938年)武蔵介として任国にあったとき、足立郡司と衝突して帰京してしまう。

この時、権守興世王と共に同国の土豪である武蔵武芝と争い、平将門調停して紛争を収めたが、武芝の一派が源経基を包囲したことから、平将門らが武芝に味方して自分を討つと勘違いして京へ逃げ帰ってしまい、平将門の謀反を朝廷に訴えた。その功で従五位下に叙されたが、世人からは、介経基未だ兵道に練れず、と嘲笑された。

このあと平将門の乱に際し天慶3年(940年)征夷副将軍となり、藤原純友の乱に追捕南海凶賊使次官として小野好古に従った。この後、大宰権少弐で警固使の任にあった経基は豊後国(大分県)で賊徒の首領桑原生行を生け捕りにし、馬や絹などを押収した。

以後、信濃、伊予など各地の国守を歴任し、鎮守府将軍となる。

応和元年(961年)源の姓を賜って臣籍に降下、源朝臣と称した。

邸宅は右京八条にあり、死後遍照心院となる。跡地が六孫王神社である。

子に源満仲(みつなか)、源満政(みつまさ)、源満季(みつすえ)、源満快(まんかい)などがある。子孫は諸国に分れて有力な武士を多数輩出した。

和歌が「拾遺和歌集」にある。

この時期については、「テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)」にまとめています。

境内案内

脇の鳥居

正面の鳥居。これが一の鳥居だろうか。

奥に見えるのが、二の鳥居。

二の鳥居とその奥に見えるのが橋。

拝殿(京都市指定文化財)。手前に見える橋は神橋と考えれば良いだろうか?

拝殿。

拝殿の奥にあるので、本殿か?こちらも造りは拝殿のように見えるが…

宝物殿?

社務所。右手に見えるのが手水舎。

手水舎

神龍池

摂末社

  • 五座神社
  • 多田神社
  • 貞純神社
  • 竹生島神社
  • 誕生水弁財天社

誕生水弁財天社

祭事

  • 元旦祭 (1月1日)
  • 成人祭・とんど祭 (1月15日)
  • 節分祭 (2月3日)
  • 初午祭 (2月初午日)
  • 祖霊祭 (3月春分日)
  • 源氏祭 (4月第2日曜)
  • 弁財天御開帳祭 (6月13日)
  • 夏越祓祭 (6月30日)
  • 祖霊祭 (9月秋分日)
  • 宵宮・宝永祭(例祭)・神幸祭 (10月9日・10日) – 「宝永祭」の名は、宝永年間に社殿再建が果たされたことに由来する。
  • 火焚祭 (11月第3日曜)
  • 除夜祭 (12月31日)

六孫王神社の概要

概要
項目内容
創建(伝)応和3年(963年)
主祭神六孫王大神(ろくそんのおうおおかみ)
天照皇大御神
八幡大神
社格等古代社格制度
中世社格制度
近代社格制度旧郷社
現代の制度
その他例祭:10月9日・10日(宝永祭)
備考

本殿の様式 切妻造
別名 多景の社(旧称)
札所等 京都十六社

公式ページ

六孫王神社

住所と地図

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