高橋典幸編「中世史講義【戦乱篇】」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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ちくま新書の歴史講義シリーズは大学の半期の講義と同じく、一冊で15回分の講義が収録されています。

本書に収録されている時代については次にまとめています。

  1. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  2. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  3. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  4. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  5. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  6. 室町時代(下剋上の社会)
  7. 室町時代(戦国時代)
  8. 安土桃山時代

中世史講義シリーズ第二弾

本書は「中世史講義」シリーズの第二弾です。

単なる戦乱史・事件史にとどまることなく、戦乱を切り口にした中世の通史・政治史として描きだし、中世に全国規模の内乱が頻発した構造的要因を考察することを目的とした一冊です。

ちくま新書の歴史講義シリーズ

  1. 考古学講義
  2. 古代史講義
  3. 古代史講義【戦乱篇】
  4. 古代史講義【宮都篇】
  5. 古代史講義【氏族篇】
  6. 中世史講義─院政期から戦国時代まで
  7. 中世史講義【戦乱篇】 本書
  8. 近世史講義─ 女性の力を問いなおす
  9. 明治史講義【テーマ篇】
  10. 明治史講義【人物篇】
  11. 昭和史講義─最新研究で見る戦争への道
  12. 昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道
  13. 昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道
  14. 昭和史講義【軍人篇】
  15. 昭和史講義【戦前文化人篇】
  16. 昭和史講義【戦後篇】上
  17. 昭和史講義【戦後篇】下
  18. 平成史講義

要約

保元・平治の乱 佐伯智広

保元の乱は鳥羽院が亡くなったのを直接のきっかけとしますが、事の発端は、鳥羽院政期の皇位継承問題にあります。

鳥羽院と崇徳天皇の関係悪化に原因を見出されますが、従来の研究で想定されたのは、崇徳天皇の本当の父親は鳥羽院ではなく、白河院というものでした。

しかし近年この「古事談」に書かれたエピソードはデマである可能性が指摘されています。そして「愚管抄」の叙述の信憑性についても、近年の研究は否定的です。

崇徳院は近衛天皇の養父として遇され、両者の養子関係は譲位の前後でも継続しており、崇徳院に対する鳥羽院の処遇に変化がありません。

崇徳院と鳥羽院の関係が破綻したのは、1155年に近衛天皇が死去したためでした。

近衛天皇に子がいなかったため、誰が皇位を継承するのかが問題となりました。

候補は2人です。崇徳院の子・重仁親王と雅仁親王の子・守仁親王です。重仁親王を選べば崇徳院が院政を行うことになります。

ところが実際の即位したのはどちらでもなく、雅仁親王でした。後白河天皇です。守仁親王が一人立ちするまでの中継ぎのような存在でした。

後白河天皇が即位したもう一つの要因は信西でした。信西は後白河天皇の乳母の夫でした。

後白河天皇方では鳥羽院が亡くなる前から、鳥羽院の命で武士が動員されました。

実際の状況は崇徳院側が謀反を企んだというより、後白河天皇方が崇徳院方に圧力をかけ、挙兵に追い込んだのでした。

摂関家においても藤原頼長と藤原忠通の争いがあり、頼長が崇徳院側につきます。

鳥羽院の政治方針は貴族社会を分断し、各派の上に調停者として君臨するというものでした。これが鳥羽院の死去により蓄積された矛盾が爆発します。

崇徳院側には源為義がつきました。かつては地位・軍事力ともに武士の首位でしたが、勢力が衰え、摂関家に臣従することで勢力回復を目指していました。

崇徳院側にはこのように摂関家に組織された武士がつきました。私的な主従関係により形成された集団を権門と呼び、御家人制による鎌倉幕府も権門としての性格を有しています。

一方で後白河天皇側は、天皇の命令で公的に動員された武士達によって構成されていました。中核は平清盛、源義朝、源義康でした。源義康の子孫が足利氏です。

合戦は後白河天皇側が兵力が勝り、先制攻撃も行うなどして後白河天皇側の勝利で終わりました。

乱の主要関係者で死亡したのは藤原頼長のみでした。また、乱によって摂関家の勢力は大きく低下しました。

勝者の後白河天皇側では論功行賞が行われました。

かつてはこの時の論功行賞が平清盛に比べて少なかったため源義朝が不満を持ったとされましたが、恩賞は合理的なものでした。

保元の乱から平治の乱までの3年間で重要な要素は後白河天皇から二条天皇への譲位です。

もともと後白河天皇は中継ぎ的存在でしたので、既定路線でした。

次いで信西が政治的実権を握ったことと信西の子らの急激な昇進です。こうした事態は従来の院近臣たちの反発を招きました。

平治の乱は京で最大の軍事力を持つ平清盛がいない間に起こりました。藤原信頼と源義朝が信西を攻め滅ぼし、帰京した平清盛によって信頼と義朝が滅ぼされました。

信頼と義朝の関係は以前からのものであり、長期的で深い信頼関係がありました。

一方で信頼の子・信親は清盛の婿になっており信頼はあえて清盛を攻撃する必要はありませんでした。

信頼が実権を握ると新たな不満が現れます。こうした状況で平清盛が帰京し、事態が大きく動きます。

保元の乱は権門という新たな組織の形成によって発生しました。乱によって大打撃を受けた摂関家は、権力や組織としての独立性が大幅に損なわれました。

平治の乱は基本的に院近臣による内部対立が原因で、動員も個別の武力にとどまりました。しかし主要な院近臣が没落し、平清盛の政治的台頭を招きました。

治承・寿永の乱 下村周太郎

治承・寿永の乱とは、いわゆる源氏と平氏の戦いです。

研究の進展により、そもそも平氏や源氏と一括りにできるような集団は想定し難いことが明らかになりつつあります。

平氏は平氏一門と言っても、宗盛流、頼盛流、重盛流に分かれ、壇ノ浦まで戦い切ったのは宗盛の一流に過ぎませんでした。

一門内の政治的・軍事的分裂が戦乱の帰趨に大きく影響を与えました。

源氏はさらに複雑で、保元の乱・平治の乱を経て河内源氏の嫡流・庶流の関係は流動化し、治承・寿永の乱の頃には庶流が各地に割拠しました。

そのため治承・寿永の乱は長く続いた河内源氏の一族間抗争の側面を有していました。

乱の引き金となったのは治承三年政変でした。

平清盛が後白河院派の貴族39人を解官し、後白河院を幽閉して実権を握ったクーデターです。

この後に以仁王が挙兵します。以仁王の蜂起自体は皇位継承に絡む私戦的な意味合いが強かったかもしれませんが、これをきっかけに全国に反平氏・嫌平氏の感情が広まります。

平安時代後期になると、軍事部門を担当する氏族として源氏と平氏が認識されます。そのため平氏に対する反感は源氏への期待感に変換しやすかったと考えられます。

そして戦乱は源氏対平氏という構図で展開することになります。

平氏滅亡後、源頼期は戦時体制を継続し、奥州藤原氏を滅亡させます。

この合戦を通じて源家譜代の主従制を演出し、多様な在地武士が放棄した内乱を源平合戦として総括する政治的意図があったのです。

こうして10年に及ぶ戦乱が終結します。

最近では治承〜文治の内乱という表現が用いられるようになってきています。

承久の乱 田辺旬

承久の乱は戦後の研究では、武士(在地領主)が荘園制に立脚した古典的な貴族政権を打倒することで、中世的な封建社会が成立したと捉えていました。

鎌倉幕府の成立は古代から中世への移行として評価されましたので、武家政権と公家政権の対立による武家政権の勝利は必然的なものとして理解されました。

その後の研究で、荘園制は中世的な土地制度と考えられるようになり、朝廷も鎌倉幕府も中世の政治権力であると評価だれるようになりました。

そのため幕府成立以前の平安時代末期には中世社会が成立したと考えられています。

また、幕府と朝廷の関係は対立的ではなく、協調関係にあったと捉えられるようになります。

公武政権が協調関係にあったことから、承久の乱における後鳥羽院の挙兵目的は、討幕ではなく、執権北条義時の追討であったとする議論が盛んになっています。

後鳥羽院は公家社会全体を統括して朝廷政治を主導し、諸芸能や武芸に通じていました。

源実朝は近年人物像が見直され、政務に意欲的であり、公家文化を積極的に吸収したことが評価されています。

鎌倉幕府と朝廷は矛盾をはらみつつも後鳥羽院と源実朝の信頼関係のもとで協調していました。

それが崩れたのが源実朝の暗殺でした。

後鳥羽院は信頼関係にあった源実朝の暗殺に衝撃を受け。幕府に対する不信を募らせます。

幼少の三寅を下向させたのは、鳥羽院院の非協力的な姿勢を示しています。

幕府は三寅を次期将軍として擁立しながらも、北条政子が実質的な将軍として政務を取り、弟の義時が執権として補佐する体制をとりました。

鳥羽院の挙兵の一因には、焼失した大内裏の殿舎再建事業が中断されたことに対する幕府への不満があります。

源実朝の幕府では将軍が最終的判断を下しており、実朝暗殺後も政治は同じ方式で運営されていました。

意思決定を行っていたのは北条政子であり、執権義時は補佐する立場でした。義時が専断していたわけではありませんでした。

こうした幕府政治の在り方を踏まえると、後鳥羽院の北条義時追討命令は、政子が主導する幕府政治体制そのものを否定することを目指したもので、討幕であったと考えるべきです。

承久の乱で勝利した幕府は後鳥羽院を謀反人として処分しています。

鎌倉幕府は源頼朝の反乱軍に始まる軍事権力のため、朝廷の意向と関係なく敵を謀反人として認定して軍事行動することが可能でした。

新たに京に置かれた六波羅探題は北条氏一門が就任する役職となり、二つの例外を除くと、鎌倉から上洛して着任することが原則でした。

在京のまま父子や兄弟で継承することが避けられ、六波羅探題が公家政権と関係を深めて、鎌倉から自立性を高めることを警戒しました。

文永・弘安の役 高橋典幸

モンゴルは突然攻めてきたわけではなく、日本に死者を派遣して外交交渉によって日本に服属を求めていました。

最初のモンゴルの使者は1266年8月でした。これを皮切りに計3回もしくは4回使者が鎌倉幕府や朝廷と交渉を行っています。

これとは別に高麗軍の三別抄や南宋からも使者があり、太宰府を舞台に東アジアの外交戦が繰り広げられました。

文永の役では暴風によって1日で幕を閉じたと考えられてきましたが、それが撤退の真の理由かは疑問が残ります。

季節的に暴風は台風ではない可能性が高いことや、1日での撤退ではない可能性など、究明の余地があります。

文永の役後、モンゴルからの使者に日本側の態度は硬化します。

さらに鎌倉幕府は積極的な動きを見せ、異国征伐を計画しました。

しかし、実行に移されることはありませんでした。

国内では同時にモンゴル再来襲に備えた準備が進められており、両立が困難だったためと考えられています。

鎌倉幕府は異国警備番役を実施し、石築地と呼ばれる石垣の築造を行いました。

文永の役後、南宋が滅ぼされ、弘安の役が実行されました。弘安の役は日本攻略そのものが目的でした。

前回の4倍の兵力で攻めてきましたが、この時は季節的な台風によってモンゴル軍は大打撃を受けます。

この後にも再び幕府は異国征伐が計画されましたが、すぐに延期命令が出されて実行はされませんでした。

朝廷と幕府の関係は承久の乱以降幕府優位で推移しましたが、幕府は朝廷の役割を尊重していました。

同じ武士でも朝廷や貴族・寺社(=本所)の配下にある者には関与しませんでした。

幕府と朝廷・本所の住み分けがはかられていたのです。

しかし対外戦争という非常事態のもと、鎌倉幕府は住み分けを超えて、朝廷や本所の領分に関与し始めました。

さらに権力集中が進み、得宗専制体制の強化が図られました。

しかし得宗には難問が山積していました。文永の役・弘安の役の恩賞問題と、朝廷と本所の領分に関与したことにより、管轄下になかった問題が持ち込まれるようになったのです。

この後には各地の荘園における悪党問題や、皇位継承問題も持ち込まれるようになります。

南北朝の内乱 西田友広

鎌倉時代中期以降、荘園制の下で本家、領家、預所、荘官、地頭、荘民らがそれぞれの立場で荘園経営に関与しました。

それぞれの地位・役割と収益は一体化し、「職(しき)」と表現されました。

世代交代や相続、売買などにより職の保有者が変化していきました。所領問題は複雑化し、紛争も多発するようになりました。

朝廷でも皇統が分かれ、持明院統と大覚寺統とで皇位を争っていました。皇統が交代も所領問題を複雑化させる要因になりました。

所領問題が複雑化して紛争も激化する中で、あらゆる階層の集合離散と武力衝突が起きます。こうした武力衝突が「悪党」問題として鎌倉幕府に持ち込まれましたが、幕府は対応しきれませんでした。

鎌倉幕府が倒されたさい、滅亡したのは北条一族とその被官がほとんどで、多くの御家人とそれが抱える問題は建武政権に持ち込まれました。

建武政権は現に行われている所領支配を認める当知行安堵を原則としました。

しかし、所領問題を抱える多くの人々が、自らの安堵を求めて京へ殺到しました。

紛争の解決は容易でなく、倒幕戦争を戦った武士の間に建武政権への不満が溜まります。

政権内部の対立や反乱が相次ぎ、1335年に中先代の乱が起きると、乱への対応を巡って足利尊氏が離反し、建武政権は崩壊します。

中先代の乱から室町政権が成立するまで、近年では足利直義が主導的な役割を果たしたことが注目されています。

武家政権再興の動きは鎌倉で建武政権下の鎌倉府を主導していた足利直義らによって用意されていた考えられています

新田義貞戦死後に足利尊氏は征夷大将軍になり、足利直義は左兵衛督に任じられました。

これまで成立期の室町幕府は尊氏・直義による二頭政治とされてきましたが、実質的にはほぼ全ての政務を直義が行っていたと評価されるようになります。

直義の政策は鎌倉時代後期の公武徳政の路線を引き継ぎ、貞和の徳政とも呼ばれました。しかし、戦乱の中で権益を拡大してきた武士たちの利益と対立する側面がありました。

永享の乱 杉山一弥

永享の乱は室町幕府と鎌倉府との関係において転換点となる出来事でした。

足利尊氏の庶子基氏が初代鎌倉公方として東日本を統御していた時期は、室町幕府と鎌倉府が対立することはありませんでした。

しかし、歴代の鎌倉公方は京都の政治抗争と連結することで室町幕府への対抗心を顕在化していきます。

鎌倉公方は将軍からの補任ではなく、鎌倉公方と京都将軍が親族でありながら、生涯一度も顔を合わせない間柄だったことも関係していたと思われます。

1438年に永享の乱が起きます。四代目鎌倉公方の足利持氏は六代将軍の足利義教から討伐され自害します。

それまでの鎌倉府と室町幕府の対立は鎌倉府により京都への策動でしたが、永享の乱は京都による軍事行動としてあらわれました。

室町幕府と鎌倉府の対立は応永末年から表面化していました。

上杉禅秀乱後、足利持氏が東国武家ながら足利将軍と主従関係を結んだ京都扶持衆の討伐を執拗に繰り返したからです。

室町幕府は永享の乱が始まるまで足利持氏に軍事行動の停止を要請し続けました。

乱の後、足利義教は関東管領上杉憲実の懇願にもかかわらず、足利持氏・義久父子の自害を強要しました。しかし、鎌倉公方と関東管領を中心とする鎌倉府の枠組みを解体する考えはありませんでした。

東日本の統御のためには鎌倉府という統治組織が必要だったのです。

そしてこの考えこそが畿内・西日本とは異なる東国武家社会の独自性・地域性を踏まえた室町幕府の東国政策でした。

享徳の乱 阿部能久

享徳の乱は1454年に、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことに端を発し、30年近く続いた内乱を指します。

戦国時代への移行時期は一般的に1467(応仁元)年の応仁の乱によると考えられてきましたが、関東では享徳の乱の勃発によって戦国状態に突入し、享徳の乱が応仁の乱にも影響を与えたことが明らかになってきています。

戦国時代への扉を開いた戦乱としての評価が確立するようになってきています。

享徳の乱の遠因は永享の乱です。

永享の乱で関東公方の足利持氏が敗死し、鎌倉府に公方が不在となりました。

幕府は1447年に持氏の遺児万寿王丸の関東公方への就任を承諾しました。

万寿王丸が元服して成氏になります。

関東管領は持氏を敗死に追い込んだ上杉憲実の子・憲忠でした。

成氏は鎌倉府の再建を図ろうとしましたが、永享の乱や結城合戦で勢力を伸張していた上杉氏とその被官である長尾・太田氏などと利害が対立しました。

その結果引き起こされたのが江ノ島合戦でした。

合戦後、幕府の管領が親成氏派だった畠山持国から親上杉派の細川勝元に交代したため、成氏は状況を打開するため取った行動が、関東管領上杉憲忠暗殺でした。

これをきっかけに享徳の乱が勃発します。

乱の序盤は成氏方に有利に展開しました。成氏は各地を転戦し、下総古河に公方の本拠地を移します。

一方で足利義政は上杉氏支持を打ち出し、後花園天皇から御旗が下賜されました。

成氏は父持氏同様に朝敵となります。

序盤の有利な展開の中で成氏は幕府へ交渉します。しかし足利義政は成氏と妥協する意思がありませんでした。

成氏に代わる新たな関東公方として兄弟の政知を派遣したからです。伊豆堀越を拠点としたため、堀越公方と呼ばれます。

戦況は次第に膠着していきます。

1467年に応仁の乱が起きます。関東の大乱となった享徳の乱が波及した内乱でもありました。

膠着していた戦況が大きく動くのは1471年のことです。上杉方の大規模な反攻が開始され、成氏は古河から脱出します。

成氏は下総本佐倉(本佐倉城)の千葉孝胤のところに逃げ、翌春には古河城を奪回します。

家督相続で不満のあった長尾景春が上杉勢に背きます。長尾景春の乱と言います。

この後、両陣営が和睦を望み、幕府の足利義政に書状をしたためます。

交渉の結果、足利義政から御内書が発給されます。こうして成った和睦を都鄙和睦とか都鄙合体と呼んでいます。

関東の諸勢力と幕府を巻き込んだ享徳の乱が終結します。

応仁の乱 大薮海

応仁の乱は乱の開始時期と終結時期から「応仁・文明の乱」に名称が定着しつつあります。

乱の最大の謎が乱勃発の原因です。

一般的には将軍家の家督争いと理解されていますが副次的なものであり、本質的な原因は他にあると考えられるようになってきています。

足利義政の性格は周囲の意見に左右されやすいものでした。たびたび朝令暮改傾向が見られましたが、その判断に共通していたのは、将軍の権威を復興しようとした意志です。

それを支えたのが伊勢貞親ら足利義政の近臣達であり、対抗勢力が細川勝元や山名宗全を中心とする諸大名です。

両者の対立は斯波氏の家督争いで最高潮に達します。

対立は思わぬ形で収束します。伊勢貞親が足利義視に謀反の疑いありと足利義政に讒言したことにより、かえって伊勢貞親が没落したのです。文政の政変と呼ばれます。

足利義政の親政挫折し、足利義視は細川勝元の屋敷で政務を取るようになります。細川勝元と山名宗全が大名頭として義視を補佐し、義政は傍観しているだけでした。

しかしすぐに対立が起きます。畠山義就の復帰巡るものです。これに対抗したのが畠山政長でした。

義就は足利義視と山名宗全の支持を取り付け、政長は細川勝元の支持を取り付けていました。ここに応仁の乱の対立軸が出来あがりました。

1467年に改元されて応仁になりました。

先制攻撃を行なったのは細川方でした。播磨国で戦闘が起き、京中でも戦闘が始まります。

事態の拡大を恐れた足利義政は畠山義就に下国するように命じました。足利義視も同意しました。

大名たちが細川方と山名方に分かれて対立した原因が畠山義就の上洛にあると考えたためです。

しかしこの時点になると、細川方は斯波義敏の復権、赤松氏の旧領回復を要求しており、これらに加えて正月の御霊合戦での細川勝元の遺恨が強く、事態の収拾は難しくなっていました。

乱は細川方を東、山名方を西として区分けされました。

戦局は将軍義政を擁する東軍有利で進んでいましたが、大内政弘の上洛により大きく変化し、長期化の様相を呈します。

義政の意を受け伊瀬貞親の使者が西軍の主力の朝倉孝景を訪れました。そして寝返らせることに成功します。

同年に疫病が流行ったこともあり、戦乱の終結を望む雰囲気が高まっていました。

1472年に細川勝元と山名宗全の和睦交渉が開始されます。1473年には勝元も宗全も死去し、単独和睦が成立します。

各地で戦闘は行われましたが、大義なき戦いであり、それぞれの権益拡大のためのものでした。

明応の政変 山田康弘

1493(明応2)年、第十代将軍の足利義稙が廃され、従兄弟の足利義澄が第十一代将軍に擁立されます。これを明応の政変と呼びます。

義稙は将軍になるまで長らく美濃で生活していたため、京都の将軍直臣や大名たちと馴染みがなく、孤立しました。

求心力を高めるために義稙は戰を行い戦果を挙げます。そして将軍麾下の有力大名である畠山、斯波、細川のうち、畠山と斯波の要望を聞き入れ、細川を孤立させようとします。

これに対して細川政元が造反します。明応の政変の始まりです。これを支持したのが日野富子でした。

それまで日野富子は足利義稙を支持していたため、義稙の廃位、義澄の新将軍嗣立への支持という知らせは義稙陣営を大混乱に陥れます。

事件の主役は細川政元ですが、日野富子の挙動も重要な意味を持っていました。

中世後期にあっては、家督相続において、しばしば主人の意思よりも家臣の総意が優先されました。ただし、主家の家督相続については、家臣の総意だけでは十分でなく、主人やそれに準じる者の承認が必要でした。

日野富子はそれに準ずる者の役割を果たし、それがゆえに大した騒擾もなく、将軍の交代が行われたのでした。

西国の戦国争乱 ―十六世紀前半の中国地域を中心に 菊池浩

ここでは中国地方に絞り、毛利氏が戦国大名になる過程を扱います。

この時期の中国地方は出雲に尼子氏、周防・長門には大内氏がおり、同地域の騒乱を規定づけていました。

出雲は守護の京極氏が在国せず、守護代の尼子氏が勢力を拡大していました。

尼子経久は一時失脚することがありましたが、守護の京極政経が死去すると、名実ともに出雲の国主になります。

大内義興が周防に亡命していた足利義材を奉じて上洛すると、足利義澄を京都から追って足利義材の将軍復位に成功します。

以後10年にわたり在京し、政権を補佐しました。その間に出雲を統一した尼子氏が周辺への進出を図り始めたため本国に帰国しました。

尼子氏と大内氏に挟まれた安芸・備後・石見には有力な守護がおらず、国人が割拠していました。戦国時代になると、自立した国衆に成長します。

代表的な国衆が安芸では毛利、吉川、小早川らでした。

その中で毛利氏がこの地域の国衆のリーダー的存在になっていきます。

応仁・文明の乱で毛利豊元が所領を広げると安芸の国衆の中でも抜きん出た存在になっていきます。

1516年に当主の毛利興元が若くして亡くなると、興元の子・幸松丸を当主として擁立しますが、後見になったのが弟の毛利元就でした。

しかし幸松丸が病で急死すると、毛利元就が当主となります。元就は鏡山城攻めの論功行賞が少ないことから尼子氏から大内氏へ帰属し、大内氏に従って戦功を重ねて毛利氏発展の礎を築きます。

安芸では国衆が尼子方と大内方に二分していました。

大内氏では大内義興が没し、子の義隆が継ぎました。尼子氏でも経久が齢70を超え孫の詮久への権力委譲が行われていました。

尼子氏と大内氏の攻防は続き、尼子氏の郡山合戦での敗北や尼子経久の死去など尼子氏の劣勢が明らかになると大内義隆は出雲遠征を決意します。

しかし出雲遠征は失敗に終わり、以後積極的な軍事行動は控えるようになります。尼子氏も往時の勢いはなく、この間に安芸では毛利元就を当主とする毛氏が勢力を増大します。

大内氏では陶晴賢が実権を握り、大内氏の内紛に乗じて侵攻してきた尼子氏を毛利元就と撃退します。

毛利氏の影響力が大きくなったことを警戒した陶晴賢と毛利元就が対立するようになります。

厳島合戦で陶晴賢を討ち取ると、大内氏の領国に攻め入り、大内氏を滅ぼします。

ついで毛利氏は石見に狙いを定めて平定します。そして出雲遠征を開始し尼子氏を事実上滅ぼします。

毛利氏は中国地域随一の戦国大名となります。

東国の戦国合戦 久保健一郎

戦国大名同士の戦争について、国郡境目相論という概念化が試みられています。

  • 大名間の抗争による同盟関係の破綻
  • 抗争領域として境目が生み出される
  • 境目領域の軍事拠点として城館への攻撃と攻撃軍に対する後詰軍との決戦
  • 停戦後の国分け

この見解によれば戦国時代の盛期は1550年代〜1582年になります。

小田原北条氏は伊勢宗瑞が初代とされます。宗瑞の代に北条を名乗ることはありませんでしたが、北条早雲として知られます。

宗瑞は室町幕府政所執事伊勢氏の庶流で幕府に仕えていましたが、甥の竜王丸を今川家の家督につけた際の活躍から駿河に下向します。

そして、1493年に堀越公方の足利茶々丸を攻撃します。

かつて、これは宗瑞の戦国大名化であり、下克上の象徴的出来事として捉えられていました。

しかし、この攻撃は中央と東国をまたがる派閥関係に基づくとする説が出され、評価が大きく転換しました。

ただし、宗瑞が中央の意向に従って行ったのか、自身の利益のために派閥関係を利用したのかは議論の余地があります。

その後、宗瑞は小田原城を奪取します。奪取時期については複数説があります。

1509年に相模中部に乱入し、扇谷・山内上杉氏との長い抗争が始まります。そして、1516年に相模を手中にします。

明応〜永正年間の東国の戦争を特徴づけるのは、一族・家中抗争と外来勢力の進出です。

宗瑞の跡を継いだ氏綱は北条へ改姓を行いました。相模支配の正統性を打ち出したものと考えられます。

江戸城の奪取に成功すると、上杉氏との対立が激しくなります。

氏綱は相模支配の正統性を打ち出したのと同様に関東支配の正統性を打ち出す必要性に迫られます。

そこで行ったのが鎌倉鶴岡八幡宮の大造営事業でした。

次いで関東管領の地位を得ようとします。古河公方足利晴氏の上意を受けて小弓公方義明と里見氏と戦います。第一次国府台合戦です。これにより北条氏は古河公方を補佐する関東管領に擬せられる成果を得ます。

また古河公方と姻戚関係になり関東支配の正統性を示しました。

北条氏康の代になり、1546年に川越合戦で扇谷上杉氏が滅亡すると優劣が決定的となり、1552年に山内上杉氏の憲政が越後長尾氏を頼ったことで40年以上に及んだ上杉氏との抗争が終結します。

この間に今川氏と手切れ、抗争に至った河東一乱を経て北条氏、今川氏、武田氏の三国同盟が成立します。

戦国盛期における東国の戦争は国郡境目相論での総括は有名な戦争ほどできませんでした。領土協定が行われないなどの事例が多いためです。

桶狭間の戦いにより三国同盟が破綻すると北条氏康は上杉謙信との協力を模索し始め越相同盟が成立します。

これにより謙信は足利義氏を古河公方として認め、北条氏は謙信を関東管領と認めます。北条氏は「大途」の立場を打ち出して支配を展開していきます。

北条氏政の代になると上杉氏と手を切り、武田氏との同盟を復活させます。第二次甲相同盟です。

北条氏は北関東や房総の反北条勢力との抗争に専念することになります。

1578年に上杉謙信が亡くなると後継を巡って御館の乱が起きます。上杉景勝と上杉景虎による抗争ですが、景虎は越相同盟により越後に来ていた北条氏康の子でした。

氏政は弟の景虎を支援し、同盟の武田勝頼にも援軍を要請しますが、景勝が勝頼と和睦することにより、御館の乱は景勝の勝利で集結します。

甲相同盟が破綻したことにより、武田氏と北条氏が交戦状態に入ります。

そこで徳川家康と同盟を結び、その後には織田・豊臣政権と関わりを持ちながら関東での戦いを進めていくことになります。

石山合戦 金子拓

近年、織田信長が用いた印章の「天下布武」はとは室町将軍が治めていた五畿内を中心とする地域の秩序回復を掲げたものという考えが浸透してきました。

「天下布武」「天下静謐」は必ずしも全国統一には結びつかないのです。

織田信長が足利義昭を供奉して上洛した1568年から1582年の本能寺の変までの足かけ15年間のうち、浄土真宗の石山本願寺との石山合戦は足かけ11年にわたりました。

1568年に上洛した足利義昭と織田信長の当面の敵は「天下」を支配していた三好義継と三好三人衆でした。

時間をかけることなく平定し、足利義昭は将軍宣下を受けます。織田信長は副将軍を要請されましたが、断り、岐阜へ戻りました。

この後、三人衆らの反撃がありましたが、撃退に成功します。

本願寺と敵対するまでで、信長にとって最も大きな出来事は浅井長政が朝倉義景と同盟を結んで離反したことでした。

神田千里氏によれば本願寺は三好三人衆と親密であり、朝倉、浅井、六角氏らとも親しい関係でした。敵対勢力は本願寺を媒介として結びつきつつありました。

1572年には武田信玄が信長に敵対し、足利義昭との関係も悪化して、足利義昭を軸とする信長包囲網が形成されます。

しかし、翌年には武田信玄が病没して包囲網が瓦解します。

足利義昭は「天下」からの退去を余儀なくされ、義昭に味方する勢力を一掃した信長は朝倉氏、浅井氏を討ち、本願寺も和睦を乞うてきました。

以後、将軍不在の「天下」を信長が統治することになります。

いったん和睦した本願寺が信長に反旗を翻します。

長篠の戦いで武田氏が大敗し、越前の一向一揆が殲滅させられると、本願寺はまたも和睦します。

ところが毛利に逃げた足利義昭が各地に足利氏再興を呼びかけると、三度本願寺は和睦を破棄します。

1579年に上杉謙信が病没すると、本願寺は天皇による和睦調停に応じます。

幾度となく和睦を破棄して信長に敵対した本願寺を信長が赦してきたのは、本願寺が「天下」の内部にあった方かもしれません。

豊臣秀吉の統一戦争 平井上総

賤ヶ岳の戦いのあと、分裂した織田政権は元に戻らず、秀吉が自立し始めます。

秀吉は大坂城を建て始め、未完に終わりますが、京都を遷都しようとします。織田家の宿老に過ぎない秀吉が主君筋の織田信雄を無視して行おうとしましたので、自立志向は明らかです。

多くの織田家臣が秀吉になびきつつありましたので、織田信雄は徳川家康と連携して小牧・長久手の戦いを起こします。秀吉が勝利した戦乱でした。

その後、秀吉は西日本の平定へ向かいます。

かつては、秀吉による全国統合の過程は、軍事力で戦国大名を攻撃・威圧し、服属させていったと見られていました。

しかし、藤木久志氏によれば、単なる領土拡大の武力制圧ではなく、平和を命じる法・政策によって全国統合が達成されたとみます。

小田原攻めによる東日本統合について、藤木氏は、秀吉が東日本全体に一斉に停戦・国分けを命じ、北条氏がそれに背いたので討伐したと指摘しました。

しかし、惣無事令について解釈が分かれます。

  • 藤木久志氏は、秀吉の関白就任によって得た領土裁判権の行使と捉え、広域を対象とする法と考えます。
  • 藤田達生氏は、惣無事を命じた文書を検討し、政権の基本法ではなかったと指摘します。
  • 藤井譲治氏は、文書が個別の対立案件に対してバラバラに出されたことを指摘し、惣無事から外れる対象があったことから広域的・持続的な惣無事令の存在を否定しました。

惣無事は秀吉の広域的法令ではなく、織田政権期の状況を秀吉が利用・拡大した外交政策とみられるようになりました。

豊臣政権の統一戦争は、各地の大名を服属させようとする外交施策が第一にあり、延長上に必要があれば大軍を率いた戦争を行うのが基本になっていました。

文禄・慶長の役 津野倫明

文禄・慶長の役が起こった16世紀の東アジアでは、東シナ海での物流が拡大し、後期倭寇が最盛期を迎えていました。大航海時代が始まっており、東アジアもその波にのみ込まれていました。

こうした東アジアの情勢と日本統一という条件下で役が起こり、秀吉は朝鮮や琉球、高山国(台湾)だけでなく、ゴア・マニラにも服属や交易を要求します。

秀吉は朝鮮が服属したと誤解しますが、この大誤解は役中も解けることはありませんでした。

この誤解を重視して中野等氏は役の目的変遷を論じました。

中野氏は、明帝国の打倒を目的と、当初から征明であり、役を大陸侵攻と称しました。

また、慶長の役に関しては明制服の意図は大きく後退し、朝鮮侵略を主眼とした戦争と位置付け、役は徐々に意味合いを変化させたと主張しました。

諸大名の軍事行動を検討すると、慶長の役は朝鮮侵略を主眼にした戦争と判断されるので、この変遷論は説得的です。

教科書では慶長の役で日本側は苦戦して朝鮮南部の占領のみに留まったという説明もありますが、そもそも目的が朝鮮南部の征服であり、駐屯支配も観察されています。

文禄・慶長の役の目的は明征服にあったのは間違いありませんが、なぜ明征服が目的なのかについては諸説が提示されてきました。

総論 高橋典幸

なぜ中世が戦乱の時代であり、全国規模の内乱が頻発したのかについて、中世の戦乱の実態に迫ります。

鎌倉幕府の地頭制について、従来は、治承・寿永の乱の結果、全国支配の覇権を握った幕府に対して、朝廷が許可した制度と考えられてきましたが、近年再検討されつつあります。

地頭制の起源は敵方の所領を没収して味方の武士に与えることにありました。

武士たちにとって治承・寿永の乱は自分たちの権利を獲得する絶好の機会だったのです。

中世の戦乱がしばしば全国に及ぶ内乱に発展した理由は、権利を巡る戦いにあったと考えられます。

戦国時代になっても事情は同じで、戦国大名は必ずしも全国統一や政治権力を目指していたわけではありませんでした。

戦いの多くは国郡境目相論、つまり領土の境界を巡る争いであり、領土の権利を巡る戦いでした。

また、中世は武士だけでなく、農村の百姓を含めた全ての人々が自分の身の安全や権利を自分で守らなければならない自力救済の時代でした。

こうした世界では武力による問題解決が大きな比重を占めざるを得ませんでした。

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