平安京羅城門跡と矢取地蔵の訪問録(京都府京都市)今は小さな公園

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羅城門跡

都の正門

羅城門。「らじょうもん」(呉音)もしくは「らせいもん」(漢音)と呼びます。後世には羅生門(らしょうもん)とも呼ばれました。都城の正門をさします。朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門と一対の関係です。

本来、都を取り囲む城壁を「羅城」(らじょう)というので、そこに設けられた門を指します。特定の門を意味するわけではないですが、一般的に平城京と平安京の南端中央の正門を指します。

遺構が見つかっていない

平城京と平安京に羅城門があったことは確実ですが、いずれも現在までの発掘調査では門建物の規模などの詳細が分かっていません。

平安京の羅城門に至っては、遺構ですら定かでないようです。数回の発掘調査が実施されているが、遺構の確認には至っていません。

羅城門跡の碑が建つ公園は、東寺と西寺の中間ポジションというだけで選定したのではないかと思いました。

まさかとは思うのですが、そもそも推定位置を間違えているということはないでしょうか…。

そもそも、羅城についてすら、イメージと異なっている可能性が強いようです。

中国では多くの都市の周囲に城壁が巡らされましたが、日本では実態はほとんど無いとされるからです。

「延喜式」では城壁ではなく「垣」とされています。ほとんどを生垣のようなもので囲っていたのかもしれませn。 もしくは土塁や溝で区切られていた可能性もあるようです。

荒廃した正門

羅城門は都の正面を装飾するための建築としての役割が与えられただけで、外国使臣の入京が絶えたのちは、必要性が失われて荒廃しました。一種の凱旋門的な使われ方をしたということでしょうか。

羅城門のイメージの一つとして、黒澤明監督の映画「羅生門」が有名だろうと思います。実際に荒廃した門だったようです。

弘仁7年(816年)に台風で倒壊し再建されますが、天元3年(980年)の暴風雨で倒壊した後は、再建されることはありませんでした。

「今昔物語集」によれば、倒壊以前から荒廃しており、羅城門の上には死体が捨てられていたようです。

これを芥川龍之介が題材として「羅生門」を書き上げ、この「羅生門」を原作の一つとして、映画「羅生門」が撮られました。

門が荒廃した時代は、一方で藤原氏全盛の時代でもありました。

テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)

羅城門の鬼

荒廃していた羅城門に鬼が棲んでいたという伝説があります。それだけ人が寄り付かないところだったのでしょう。東西に東寺と西寺があるというのに、不思議な感じもしますが…。

伝説では、源頼光が酒呑童子を討伐した後、頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、羅城門に鬼がいると言う話がでたところから始まります。

四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住むはずがない、と確かめるために1人で羅城門へ向かいます。

羅城門に着くと、鬼が現れ、渡辺綱は鬼の片腕を斬り落としました。鬼は逃げて行ったといいます。

これには後日譚もあり、「平家物語」剣の巻の一条戻橋の鬼の話では、鬼が渡辺綱の乳母に化けて腕を取り戻す話が伝わっています。

鬼については、次の本が参考になります。

礎石のみだった?

11世紀前半頃になると、藤原道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰っています。当時の羅城門は礎石のみだったようです。

規模は、「拾芥抄」では桁行7間・梁間2間で二重閣、「大内裏図考証」では桁行9間と違いがあります。ですが、遺構が見つかっていないとなると、台座だけは大きく作ったものの、巨大な建造物は作らなかったのかもしれません。

この日は、東寺を参拝し、羅城門跡を見て、六孫王神社を参拝して京都駅へ戻りました。

羅城門と兜跋毘沙門天立像と平将門と

羅城門と関係が深いのが東寺と西寺。西寺は現存しておらず、東寺だけが残っています。

東寺にある木造兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や三彩釉鬼瓦(国の重要文化財)は、平安京羅城門にあったものと伝えられています。

兜跋毘沙門天像は、弘法大師が中国・唐で手に入れたものとされます。天慶2年(939年)に平将門が乱を起こすと、都の守護神として羅城門の上層に安置されました。その後、台風で羅城門が倒壊すると、東寺に移されました。

兜跋毘沙門天は仏教の護法善神である天部の一つです。四天王の中の北方の護法神である多聞天が、独尊では毘沙門天と呼ばれます。地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表された姿を指しています。

住所と地図

所在地: 〒601-8453 京都府京都市南区唐橋羅城門町54

矢取地蔵尊

空海を守った地蔵

この東寺と深い関係があるのが、羅城門跡のそばに建つ矢取り地蔵です。

平安時代初期。東寺と西寺の威勢が強かった時代、東寺には空海がおり、西寺には守敏(しゅびん)という僧がいました。

天長元年(824年)、日照りが続いたため、淳和天皇が空海と守敏に神泉苑(京都市中京区)で雨ごいを命じました。先に守敏が祈念したが、雨は降りませんでした。一方で、空海が願をかけると三日三晩にわたって雨が続いたといいます。「雨ごい合戦」は空海に軍配が上がりました。

空海が活躍した時代については、「テーマ:平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)」でまとめています。

雨ごい合戦でないという話もあります。

淳和天皇の勅命により、空海が神泉苑の池畔で雨ごいをしたが、効果がありませんでした。

原因は、守敏が呪力により、龍神を水瓶に封じ込めたからです。空海は、唯一残された善女龍王を天竺・阿褥達智池から呼び寄せ、雨を降らせたという話も伝わります。

守敏は空海を恨み、空海を羅城門近くで待ち伏せて矢を放ちます。

ですが、黒衣の僧が現れて矢を右肩に受けました。僧が身代わりとなり、空海は難を逃れたのです。

黒衣の僧はお地蔵さまの化身であり、後にそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負(やおい)地蔵」と呼ばれるようになりました。

その地蔵を祀ったお堂です。

住所と地図

〒601-8453 京都府京都市南区唐橋羅城門町1

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