海音寺潮五郎の「列藩騒動録」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

各騒動は年代順というわけではない。幕末の騒動から江戸初期の騒動までが散りばめられている。どういう風に順を付けたのかが今ひとつ分からないのだが、島津騒動を最初に持ってきているのは、海音寺潮五郎の思い入れがあってのことなのだろうかと思ってしまう。

この列藩騒動録で取り上げられている各お家騒動は、ちまたに流布している講談本ものをバッサリと斬り捨て、あるべき史実を丹念に追っている史伝である。

また、取り上げられている事件は、本質的には現代にも当てはまるようなものが多いのではないだろうか。藩というものを、会社や役所などの「組織」におきかえてみると、本質的には同じ事件は起きているはずである。

だから、講談本などでの善玉・悪玉とは違う登場人物の素顔が見えてくるし、騒動の背景にある様々な事情を明らかにすることで、本当の善玉・悪玉というものが見えても来る。騒動によっては、善玉・悪玉という風にすることすら馬鹿馬鹿しいというものもある。

現在でも週刊誌のタイトルとして「お家騒動」が踊ることがある。大概はオーナー企業が絡んだもので、創業者が騒ぎを起こすというより、継いだ二代目、三代目やその妻、親戚が欲を丸出しにしたために起きているケースが多いように感じられる。

愚かなのは、そうした恥ずかしい内幕を週刊誌に当事者が語ってしまうことである。週刊誌や読者としてはそのほうが面白い。反論が載ればなおさら面白い。誰も当事者に同情なんかしていない。むしろ、もっともっと泥沼になれとも思っているのかも知れない。

このように、世間には見世物のように扱われるのが「お家騒動」だというのは、わかりきったことなのに、懲りずに方々で起きるというのは、昔から人の性質は変わっていないということなのだろう。

さて、本格的なお家騒動は継嗣問題を中心として党派の抗争が絡む。だが、そうした騒動は少なく、多くは変形だという。

「島津騒動」は島津久光の母・お由羅が島津斉彬の子を呪詛したとする「お由羅騒動」を取り上げているわけではない。島津藩の経済難から発端した事件として騒動を捉えている。

だが、最後に海音寺氏は「島津斉彬は暗殺だと信じる」と述べており、これは確信を持っているようだ。当時、毒殺説は常識だったそうだ。

「伊達騒動」は伊達家の老臣に人物がおらず、目付ごときに引き回され、家中を統制することが出来ず、藩中の不平不満を押さえつけるために、権力と刑罰を使ったというものである。

この伊達騒動を題材にした小説としては山本周五郎の「樅ノ木は残った」が有名である。

これがNHKの大河ドラマとなっているが、海音寺氏はNHKの「樅ノ木は残った」は、江戸幕府の伝統的方針であった外様大名潰し策によって解釈しているが、この政策は一時代前までのことで、この時代には考えられなかった、とクレームを付けている。

地生えの大大名は土地の民との結びつきが緊密強固だから、悪い腫れ物と一緒で、天下の大乱にも発展しかねない。幕府としては慎重に対処せざるを得ないのだ。

この項で面白かったのは、江戸初期の吉原で高級遊女を買えたのは大名や大身の武家だけだったそうだ。大町人がそうなるのは元禄の時代からだったという。

「黒田騒動」は黒田騒動は殿様が家柄家老をきらうあまりに仕置家老を信任しすぎたために、家柄家老が腹を立てたという騒ぎであり、「加賀騒動」はそもそもがでっち上げの犯罪としている。この加賀騒動の真犯人は前田土佐守直躬が一番怪しいといっている。

「越前騒動」では、徳川家康が本多伊豆守富正を勝ちとしたのは、伊豆守が自分の大忠臣であった本多作左の養子であり、骨髄からの徳川党であったからだという。

黒田騒動は主人と家老の抗争。加賀騒動は新進の権力者と門閥重臣の争い。生駒騒動、越前騒動や越後騒動は党派の抗争。越前騒動や越後騒動は親藩での事件のため、取り潰しにはならなかったが、生駒騒動は家中の士らの党派争いで、それによって生駒家が滅びてしまう。

興味があったのは「阿波騒動」。阿波騒動の蜂須賀重喜は失敗した上杉鷹山といわれることがある。鷹山を書いた本であれば、蜂須賀重喜を記すというのは多いようである。

鷹山は重喜と時代を同じにしている。ただ、ほんの少し鷹山の方が上杉氏を継ぐのが遅い。実家が小大名であるのも似ている。上杉の家臣らが家老を含めて鷹山を侮ったのも似ている。改革政策に反抗的だったのもそうだ。だが、鷹山は成功した。

重喜は鷹山に劣っていたのだろうか?海音寺氏はそうは思わないという。鷹山と同じくすぐれた知恵と志を持っていた人だったが、鷹山には柔軟性があり、重喜は鋭敏剛強に過ぎた。鷹山は説得し、籠絡したが、重喜は強圧した。成否の原因はおそらくここにあるだろうと述べている。

また、鷹山が重喜の失敗を他山の石にしたということも考えられる。後進の前人に勝る利点だという。

「阿波騒動」に限らず、「お家騒動」というのは他山の石とすべきものなのだろう。

内容/あらすじ/ネタバレ

島津騒動

島津家のお家騒動は、大本にさかのぼれば貧乏から始まった。次第に累積していった借金が、重豪の代になり豪奢な生活がたたり借金がさらに膨れあがった。

重豪は隠居して斉宣が当主となり、改革を断行しようとしたが「近思録くずれ」と呼ばれる事件が起き頓挫する。これが後の「島津家お由羅騒動」のはじまりとされてきた。

重豪は斉宣を隠居させ、孫の斉興を当主に立てたが、つもりつもった借金は五百万両。どうにもならなくなったところで、登用したのが調所笑左衛門だった。そして、調所が中心となり二百五十年賦という荒業で財政を立て直した。この頃に重豪が亡くなり、斉興の親政となったが、引き続き調所笑左衛門を重用した。

斉興には三人の男児がいた。長男が斉彬、次男が斉敏、三男が久光である。斉彬は重豪にかわいがれて育ち、その資質も似たところがあった。斉彬は英邁であったが、新し好みが斉興らを不安にした。長いことかけて建て直した財政を再び重豪の時のようなものにしてしまうのではないかという不安である。こうした思いをする人々にとっての望みは斉彬同様に賢明な久光だった。

斉彬は自分の手腕が思う存分発揮できないのは調所を筆頭とする重臣が金を与えないからと、これを憎み、調所らを追い落とすことに力を入れる。幕閣にも斉彬を支持する老中の阿部らもいた。さらに父・斉興を隠居させ斉彬を当主にする手筈が幕閣でも整い始めた。そして斉彬が当主となる。

伊達騒動

伊達政宗の十男・伊達兵部宗勝が伊達騒動の悪玉の中心人物とされる。

伊達政宗が死に、子の忠宗が継ぎ、さらに綱宗が家督を相続する段になり、迷いが生じた。老臣らが綱宗を嫌っているのを忠宗が不安に思ったようである。だが、綱宗が継ぐことになり、後見として兵部宗勝が立つことになった。家老には茂庭周防定元、奥山大学常辰らがいる。

綱宗は家督を継いでから頻繁に吉原に通ったようである。それが老中・酒井雅楽頭にも聞こえ、苦言をいわれる始末である。結局、綱宗は隠居に追い込まれる。後継には子の亀千代丸が立ち、伊達兵部宗勝は引き続き後見の一人となった。

この頃には藩政の中心は奥山大学常辰の独壇場となっていた。鋭い才気の持ち主で、独裁的性格の人物のようだった。相手がたとえ後見役でも盲従しない骨の硬さも持っていた。が、やがて反発をくらい退職させられる。返り咲いたのは茂庭周防定元であった。

奥山の独裁にこり、後見役らは後見役直属というべき目付をおいた。が、この後見らが事ある毎に兵部宗勝に注進する。次第に伊達家での兵部宗勝の威勢が上がるようになってきた。諫言した者に対する処罰は峻厳を究め、全藩震え上がるものだった。

兵部宗勝全盛の時代が来たかに見えたが、一門の伊達安芸が境目問題をひっさげて立上がった。

黒田騒動

黒田騒動の中心人物は栗山大膳である。栗山家は、黒田家の柱石、家柄家老の筆頭であった。

黒田忠之が父・長政の死により五十二万三千石の太守となったのは二十二歳の時であり、首席家老の大膳は三十三歳であった。この二人は主従とはいいながら兄妹のように育っている。が、忠之の家督後しだいに仲が悪くなった。

大膳は大変賢かったが、てらいの強い、高飛車な態度の人であり、忠之は相当賢くもあり気力もある人だったが、苦労せずに成長した人であった。しだいに忠之の方が大膳に不快な気持ちを持つようになったのは自然なことである。忠之は自由になる重臣を欲しいと思い始めた。ここに倉八十太夫正俊という人物が登場する。

これを忠之は重用し始める。そして政治に緩みがでてきたようで、長政の遺言にあった「国政はすべて家老で相談して行い云々」を無視して政治が行われるようになってきた。大膳を始めとする家老が忠之に諫書を差出したが、これを忠之が握りつぶしてしまう。大膳は面白くない。

やがて、大膳は忠之に疑念を抱くようになる。そしてついに訴状を正式に幕府に提出することになる。

加賀騒動

加賀騒動は英主であった五代綱紀の子・吉徳の時から始まる。騒ぎの元凶となるのは大槻伝蔵である。若き日の伝蔵は人の気を見る鋭い働きがあり、弁口がさわやかであり、目から鼻に抜けるような怜悧さがある。伝蔵は生涯家老にはなれなかったが、家老になりうる家柄までには到達した。

吉徳の治世になり、加賀の財政は逼迫してきた。そのため機転の利く人物を必要としたのだ。こうした名かで、伝蔵は吉徳の信任を得ていく。また、伝蔵は吉徳のスパイ組織の中心をつとめていたようでもある。このようにしてしだいに加賀藩の政務は伝蔵によって処理されるようになり、権力が増す一方となる。

これを嫌った人物に青地藤太夫がいた。彼の目には伝蔵は佞臣にしか映らない。前田家の重臣の前田土佐守直躬は青地を尊敬していた。必然その影響を受ける。そして、世子の宗辰も感化されることとなる。

やがて、吉徳が死に宗辰が継ぐと、大槻伝蔵を政務の中心から遠ざけるようになる。が、この宗辰がほどなく死んでしまう。次ぎに立った藩主の時に今度は牢小屋に移されてしまう。この頃、江戸の上屋敷で奇怪な事件が起きる。毒騒ぎが起きたのだ。

秋田騒動

秋田佐竹家は古い家柄で、江戸時代の諸大名中第一といってもよい。八幡太郎義家の弟新羅三郎義光以来連綿と大豪族として続いた家である。

騒動の発端は、常陸から秋田へ移った時の当主義宣を第一世とすると第五世の義峰の時に始まった。

義峰には男児がいなかったので養子を迎えた。これがいけなかった。分家壱岐守家の当主義道は子を立てようと思っていたのを別のにさらわれて無念であった。それもあって、義峰の寵臣那河忠左衛門に取り入った。

そうしているあいだに世子が死に、別の世子・義真を立て、義峰が死んだ後当主となる。しかし、この義真も程なく死んでしまう。やがて義道の子・義明が当主となる。

秋田騒動は、古来これまでのところから始まるのを常とする。だが、これまでは普通のお家騒動につきものの家督騒動であり、これからの藩の経済政策を巡る党派争いと、下層藩士らの門閥層への反抗運動とは別物であるはずである。だが、これが絡まって語り継がれてきたのが秋田騒動である。

野尻忠三郎という者がいた。不遜な態度があったために冷飯を食わされた口である。佐竹家は古い家柄だけに階級制度がとても厳重であった。これにも野尻は不平があった。野尻は門閥を倒すことを考える。

折しも藩では藩札を発行しようとしていた。だが、当時の藩の要人らは経済知識が貧しく、藩札を上手く軌道に乗せることが出来ないでいた。

越前騒動

越前福井の松平氏は家康の次男秀康に始まる。この秀康の時に召し抱えたのがこの騒動で最も重要な人物となる久世但馬であった。秀康が死に、忠直が継いだ。だが、まだ十三の少年である。

佐渡のゴールドラッシュに絡んで、久世但馬の領する村の百姓の娘の家が元の夫に襲われた。ここからことは始まる。

一番家老の本多伊豆守富正を蹴落したいと思っていた家老の今村掃部助と清水丹後守はこの事件を気に、本多伊豆守富正を滅亡に追い込もうと考えた。一種のクーデターを画策したのである。本多伊豆守富正は本多作左衛門重次(通称・鬼作左)の養子である。越前家創業の功臣である。

今村掃部助と清水丹後守は本多伊豆守富正に久世但馬を召し捕らせることにした。ここに藩内で小規模な戦争が起きてしまう。事件としては大きすぎ、また、忠直の妻・勝姫は将軍秀忠の娘ということもあり、幕府に筒抜けにわかっていた。そこで、幕府は主立った者に召還命令を出す。

家康は土井大炊頭利勝に聞き取りを命じ、本多佐渡守正信が尋問役となった。

越後騒動

越前宰相忠直の子・仙千代が越後高田へ移ることになった。が、現地に赴くことなく、江戸で長いこと住んでいる。その間に元服して光長と名乗る。そして初入部となる。

恵まれた土地であったが、大地震が来て、松平高田藩のエポックとなる。繁栄の勢いが頓挫したこと、藩政の中心となっていた家老が入れ替わってしまったことである。地震により家老にも多くの死者が出たのだ。

小栗美作は家柄家老であったが、政治手腕も優れたものがあった。評判がよさそうなものであるが、そうはいかなかった。あまり好意を持たれていないところに決定的な事件が起きた。知行制を廃止して、蔵米制度に変えたのだ。知行制度の方がなにかと利点があるため、反発を買うのは当たり前である。

光長の嫡子が死んだ。この他に男児はいなかった。当時光長に血の近いのが三人いた。一人は永見大蔵長良、永見市正長頼の遺子万徳丸、三人目が小栗美作の二男大六である。大六は光長の甥に当たる。

万徳丸が養子となり、名を綱国と改めた。一方、美作は家中の不人気を回復するために奔走するが、その中で、美作が次男の大六を世子にと狙っているのではないかという憶測が家中に流れる。

仙石騒動

十代仙石美濃守政美が危篤となった。重臣らは色を失った。後継がいなかったからだ。政美には弟が多数いたが残っているのは妾腹の道之助だけだった。数え年五つ。老臣らはこれを推したが、首席家老の仙石左京久寿が幕府がそれを許すか不安だと言い立てた。

江戸の伺いを立てるために左京が出発したが、なぜか子の小太郎を連れて行った。老臣らはこれを怪しみ、先手を打った。ここまでは良かったが、この後はことごとく左京にしてやられる。

左京は老臣を怨み、復讐した。老職ではなかったが、その割を食った一人に河野瀬兵衛もいた。この河野が後年お家騒動暴露の導火線となる。

左京は国許でたいそうな贅沢をしていること、江戸の道之助は手習い用の紙にも不足する始末だった。だが、勢いのある左京はさらに権勢を凄まじいものとした。

これを見て腹を立てたのは河野瀬兵衛だった。左京に追い落とされた老臣らをけしかけ、隠居の久道へ上書を書かせた。が、これは失敗した。だが、河野瀬兵衛は江戸の分家等へ文書を送りつける。こうした中、河野瀬兵衛は良き同士として神谷転を得る。

河野は左京に睨まれ、天領へ逃げ込んだが、ここに左京が踏み込んで捕縛する。また、神谷転は虚無僧となっていたのを町奉行所が捉えてしまう。いずれも越権行為である。

寺社奉行の一人、脇坂中務大輔安董が待っていましたとばかりにこの事件に乗り出す。後に老中となった人物である。そして脇坂が事件に直接当たらせたのが、幕末の最も有能な官僚の一人・川路聖謨となる川路弥吉だった。

生駒騒動

生駒正俊が死に、遺子の後見として藤堂高虎と高次がついた。さっそく高虎は西島八兵衛之友を諸事の目付として讃岐につかわした。一件が落着したと思っていると、高虎の所に生駒家の前野助左衛門と石崎若狭がやってきて家老首席の生駒将監の権勢が強くなり、家中で不興を買っているという。高虎は注意することにした。

高虎は将監をやめさせるのが一番だと思っているが、将軍家にも御目見得している者であるから公儀の諒解を得ねばならず、面倒だと感じた。

だから、将監に匹敵する家老を作って、権力を分かつ工夫をする必要がある。ということで、元服した生駒高俊の叔父に当たる生駒左門を家老にし、目付として前野助左衛門と石崎若狭をおくことにした。

やがて、前野と石崎は高虎のお気に入りとなり、高虎死後に継いだ高次にも上手く取り入った。やがて、二人の権勢は日の出の勢いとなる。これを苦々しく思う者もおり、党派となって対立の形となる。

やがて、事態が深刻となり、藤堂高次や幕府の土井利勝などはことを穏便に済ますために、各党の主要どころを切腹を申しつけて終わりにしようと考えていた。だが、お膳立てが出来たところで、生駒高俊がこれをひっくり返すようなことをしてしまう。

檜山騒動

盛岡の南部家は戦国時代末期に青森県の西半分を津軽家に横領された。この横領が二百三十年後の騒動の根本原因となる。この騒動は檜山騒動といわれるが、実際の騒動は檜山とは全然関係がない。

事件の主人公は相馬大作、本名を下斗米秀之進将真という。十八のおり出奔して江戸に出た。夏目長右衛門信平という旗本に入門した。この夏目は実用流の武術家として最も有名だった平山行蔵の高弟だった。やがて夏目が蝦夷へ派遣されることになったので、秀之進は平山行蔵の門弟となった。

南部利敬が死んだ。これが秀之進の運命を大きく変えていく。

津軽家は従来柳の間詰だったが、金銀をばらまいて大広間詰に家格が昇進することになった。南部家は家格の上で大広間詰であるが、もし津軽家が大広間詰になると、次期藩主の利用は位階が低いため、津軽家の下にすわらなければならない。これが大きく南部藩を刺激し、また秀之進を大きく刺激した。

そこで、秀之進は大胆な計画を練る。津軽家の行列を待ちかまえ、君臣の義を説いて、隠居してもらおうというのだ。

宇都宮騒動

本多佐渡守正信、上野介正純の家は本多平八郎忠勝と同祖から出て、ずっと以前にわかれたということになっている。本多佐渡守正信は若い頃から多難な人生を送ったため、ふくらみのある人柄であった。

一方、正純はこうした経験を経ていないため、才気が鋭く出過ぎてふくらみのない人柄だったようだ。

親子で老中となり、父正信は江戸で、子の正純は家康の大御所付の老中となった。家康と正信が立て続けに死んだ頃には、正純は江戸の秀忠らにいい感情を持たれていなかった。

正純が江戸の老中となった頃、家康の遺言により、宇都宮の十五万五千石を領することになった。これを喜ばなかったのは、前の宇都宮城主の奥平家の人々だ。奥平家には将軍秀忠の姉・亀姫が嫁いでおり、現当主の祖母にあたる。亀姫ばあさまは腹を立てた。

奥平家にお預けになっている者に堀伊賀守利重というのがいた。これも故在って本多正純を恨んでいた。この利重が亀姫に拝謁を申し出て、正純の悪事を探ってみるという。すると、鉄砲密造と、鉄砲を関東に運び込んだこと、本丸の無断修理など、次から次へとでてくる。

秀忠が日光へ参拝にでた。その秀忠を歓迎しようと正純は張り切った。日光参拝が終わり、江戸へ向かう秀忠に亀姫から文が届けられた。

阿波騒動

「阿淡物語」「泡夢物語」という書物がある。小説であるが、嘘ばかりでもない。ある目的があって、具合の悪いことは除いている点がある。だが、それを除くと、この事件はお家騒動にならず、単なる藩政改革の失敗談になってしまう。

阿波徳島の蜂須賀家は十代宗鎮からは初代小六正勝の血を伝えないで現在に至っている。

佐竹分家から重喜を迎え、家督を継ぎ阿波へ入部した。二万石の小大名から家に来たという観念もあり、重喜も軽蔑されまいとして気張ったところがあり、これが騒動を生む最大の原因となる。

重喜は独裁制をしこうと考えていた。その第一手として家柄家老の稲田九郎兵衛植久の洲本仕置を免職した。阿波で百姓一揆が起きた。藩の藍の専売制と藍玉製造業者の暴利をいきどおって起こされたものだ。

こうした中でも重喜は改革を進めるために厳しい倹約令をだした。これくらいでは藩財政の立て直しの大効果は望めない。もっとも効果のあるのは行政整理であるが、これは封建制度の根本であるため、手が出せない部分であった。そこで、重喜は職班官禄の制を考え出した。しかし、これは反対にあい一端引っ込めることにした。

厄介なことが生じた。平島公方といわれる足利将軍家ゆかりのものが阿波にいる。それが加増を望んだ。重喜ははねのけたが、国許の重臣が加増してしまう。重喜は政務が出来ないと引退を宣言してしまう。

本書について

海音寺潮五郎
列藩騒動録
江戸時代

目次

島津騒動
伊達騒動
黒田騒動
加賀騒動
秋田騒動
越前騒動
越後騒動
仙石騒動
生駒騒動
檜山騒動
宇都宮騒動
阿波騒動

登場人物

島津騒動
 島津斉興
 調所笑左衛門
 島津斉彬
 お由羅
 島津久光

伊達騒動
 伊達兵部宗勝
 伊達綱宗
 茂庭周防定元…家老
 奥山大学常辰…家老
 里見十左衛門
 伊藤采女重門
 伊藤七十郎
 伊達安芸
 原田甲斐

黒田騒動
 栗山大膳
 黒田忠之
 倉八十太夫正俊

加賀騒動
 大槻伝蔵
 前田吉徳
 青地藤太夫
 前田土佐守直躬
 前田宗辰
 楊姫
 浅尾…中老

秋田騒動
 佐竹義道
 那河忠左衛門
 野尻忠三郎

越前騒動
 松平忠直
 久世但馬
 本多伊豆守富正
 今村掃部助
 清水丹後守

越後騒動
 小栗美作
 大六…美作の次男
 松平光長
 永見大蔵長良
 綱国(万徳丸)

仙石騒動
 仙石道之助
 仙石左京久寿
 小太郎…左京の子
 河野瀬兵衛
 神谷転
 脇坂中務大輔安董
 川路弥吉

生駒騒動
 藤堂高虎
 藤堂高次…高虎の子
 西島八兵衛之友
 生駒高俊
 前野助左衛門
 石崎若狭
 生駒将監…家老首席
 土井利勝

檜山騒動
 相馬大作(下斗米秀之進将真)
 夏目長右衛門信平…旗本
 平山行蔵…武術家
 関良助
 下斗米惣蔵
 一条小太郎
 赤坂市兵衛
 喜七
 徳兵衛
 大吉

宇都宮騒動
 本多上野介正純
 亀姫
 堀伊賀守利重

阿波騒動
 蜂須賀重喜
 稲田九郎兵衛植久
 山田織部真恒
 足利義根…平島公方

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