畑尚子「江戸奥女中物語」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

奥女中を研究する人にとって、三田村鳶魚の「御殿女中」はバイブル的存在だそうです。

本書では具体的な事例として、多摩地域から奉公に上がった藤波を主人公にしています。藤波は現在の東京都日の出町の野口家から江戸城大奥に奉公にいった女性です。

藤波は江戸時代の地名で上平井村の出身で、文化8年(1811)に生まれました。八王子千人同心野口金兵衛の娘で、「とら」と名付けられました。

次の本も併せて読まれると良いと思います。

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プロローグ

奥女中で働く女性の出自を見ると、公家の娘、武家出身者(旗本・御家人や大名の家臣の妻や娘)、江戸市中の町人、農村出身など様々です。

三田村鳶魚も述べているように、奥女中について一概に論じることはできません。

将軍家に仕える者(幕府女中)と、大名家に仕える者とに分けて考える必要があります。

また、誰付かによって勤務場所が左右されます。幕府女中の場合、江戸城とそれ以外に大別でき、江戸城の場合は本丸、西丸、二丸の三箇所に分かれました。

奥女中は奉公に上ると職制を与えられました。御年寄や老女が上におり、出自によって最初の職階が決められましたが、出世することができました。

また、女中名が与えられました。職制に従って幕府や大名家で特定の名前が決められていることもありました。出世すると女中名が変わりました。

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第一章 奉公に上る

裕福な町人や農民の娘にとって、武家奉公には高等教育の意味合いがありました。

武家奉公は一生続けるものではなく、結婚前の一時期に数年経験するものでした。

武家奉公を目指す女性たちは歌舞音曲の稽古をしましたが、盛んになったのは18世紀の中頃からです。

氏家幹人氏も指摘していますが、このような現象が起きたのは、大名側が奥奉公の条件として歌舞音曲の素養を求めたからでした。

奉公のつては奉公経験者の紹介や人宿によるものだけでなく、商売によるつながりからもありました。

武家屋敷への奉公は、駆け込み寺と似た機能を果たすこともありました。そのため、奥女中には未婚女性だけでなく、既婚者や離婚経験者もいました。

江戸時代の離婚は協議離婚が原則で、三くだり半による離縁状での離婚が原則ではありませんでした。

協議離婚で決着がつかない場合、鎌倉の東慶寺と上州の満徳寺への駆け込みでしたが、武家奉公でも同じような手法が取られました。

結婚と離婚という相反する行為を成就させるために女性が利用したのが武家奉公でした。

第二章 奥女中の仕事と生活

奥女中には諸手当が支払われました。これに加えて職制が上の御年寄と、外交を担う表使には町屋敷が与えられました。人に貸して賃貸料を収入としていました。

将軍が代替わりをしても一斉に女中が入れ替わるわけではありませんでした。例えば10代家治から14代家茂まで権力を維持したのが御年寄の滝山でした。

奥女中自身が自分の部屋で使う女中を雇うことがありました。部屋方と言われます。

幕府は奥女中に対して禁令や就業規則などを発布しています。

第三章 奥女中のいる空間

江戸城の西丸が現在の皇居宮殿で、紅葉山に宮内庁の施設、吹上御庭は御苑、本城一帯は公園、田安邸・清水邸跡には北の丸公園があります。

大奥御殿は本丸、西丸、二丸の三か所にあり、三丸は表御殿だけでした。

本丸は将軍と御台所
西丸は世子と御簾中、あるいは大御所と大御台所
二丸は将軍生母や前将軍の側室ら

天保期以降、江戸城はたびたび火災にあい、全部の御殿が揃っている時の方が稀でした。

本丸御殿は表向、中奥、大奥の三つに区分され、表向と中奥は一続きの建物でしたが、中奥と大奥は厳重に区切られていました。

表向は幕府の中央政庁にあたり、儀式を行う部屋や諸大名の控室や役人の詰所などで構成されています。

中奥は将軍が日常生活をおくり政務を司る場所でした。

大奥は御殿向、長局向、広敷向の三つに区分されていました。

御殿向は将軍の家族が生活し、奥女中が働く空間です。

長局は奥女中の住居です。奥女中は長局で暮らし、御殿向に出仕する職住隣接の生活をしていました。

長局は一の側から四の側まであり、一の側右側から職階順に部屋が与えられました。

弘化二年(1845)の建物では大奥は6318坪あり得ない長局は大奥の3分の2をしめる4212坪くらいありました。

広敷向には大奥で事務や警護をする男性の広敷役人の詰所がありました。

広敷役人には事務系と警備系に二系統があり、留守居も支配を受けました。留守居の仕事は大奥取締が主な任務でした。

本丸大奥の主は将軍の正室である御台所です。

意外なことに、徳川15代を通じて、将軍の御台所で次将軍の生母は徳川秀忠の正室・お江ただ一人でした。

天保15年(1844)、江戸城本丸が火災により焼失しますが、火元が本丸大奥長局でした。火元は梅渓の裏部屋とされ処罰されました。

火元争いには、広大院付女中と家慶付女中との勢力争いが含まれていたと考えられます。

大名家では江戸上屋敷が奥向きの中心的位置を占めるようになりました。そのため国許より江戸の方が奥女中が圧倒的に多く、上屋敷で奥向きの総取締役にあたる老女が力を持ちました。

上屋敷には藩主や正室が住み、藩の政庁としての機能が置かれました。

中屋敷には隠居した藩主や世継ぎが住み、下屋敷は別荘的な役割を持っていたと一般的に言われます。

拝領屋敷だけでは手狭な場合、江戸近郊に抱屋敷を造りました。

老中になることの多かった譜代大名家は上屋敷が頻繁に変わりました。老中の役宅は江戸城郭内の西丸下や大名小路と呼ばれる地域にあり、老中になると一画を上屋敷として幕府より拝領し、老中を退くと屋敷は召し上げられ、次の老中に与えられました。

藩邸内は御殿空間と詰人空間の二重構造になっていました。

御殿空間に中枢機能を担う諸機構が置かれ、藩主や夫人、家族が住み、奥女中の生活空間が置かれています。

詰人空間には藩邸内の諸用役や家臣、中間・小者などの詰人の居住空間などで構成されていました。

御殿奉公は大名家の御殿内での奉公だけでなく、詰人空間であっても上級武士が暮らす場所には女中奉公が存在しました。

御殿空間は江戸城と同じく表・中奥・大奥の三つや表向と奥向の二つに分かれているケースがありました。

御殿空間は上・中・下屋敷の全てにあったとは限りませんでした。

将軍の姫君を正室に迎える大名は、屋敷内に御守殿もしくは御住居を建てなければなりませんでした。

藩邸内に特殊な空間が生まれ、幕府から禄をもらう女中たちが住みました。

将軍の娘の格式が整えられたのは三代家光の時でした。

五代から十代までは実子ではなく養女が嫁ぐことが多かったですが、格差はありませんでした。

十一代家斉は子沢山で御三家・御三卿、大大名に入輿したのを御守殿、それ以下を御住居としました。

第四章 奥女中の出世

御部屋様とは側室のうち子供をもうけた者に与えられる尊称です。しかし全てが御部屋様になれるわけでありませんでした。

側室は職制としては中臈であることが多く、側室である限り老女になることはありませんでした。

老女は職制上の最高位で藩の奥女中を束ねて、表との交渉なども行います。

大名屋敷での採用時に格差が生じており、最下層の御末の者と、主人に近侍する御次・御側クラスに分かれていました。

働きぶりによって出世はできましたが、御末から老女になることはまずありませんでした。また、御次・御側クラスで採用されても、町人の娘が老女になるのは困難でした。

側室の立場は奥女中の立場を逸脱することではないことが厳密になったのが六代家宣の時代でした。

側室が生んだ子でも形式上は正室の子となり正室を母としました。生母は子から呼び捨てにされ、家族として遇されるのは息子が当主になった時に限られました。

奥女中が奉公を辞める理由には、老衰、結婚、病気、実家の事情などがありました。定年退職はありませんでしたが、30年以上勤め隠居した者には住居が下され、死ぬまで生活に困らない扶持が与えられました。

剃髪して比丘尼と呼ばれ、分限帳にも名前が記載され、幕府の保護下にありました。

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