テーマ:室町時代(下剋上の社会)

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惣村の形成

14世紀後半に荘園領主や国人の支配する農村で、惣や惣村とよばれる結びつきが発達しました。

戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民と成長してきた小農民でつくったものでした。

自治的性格を持ち、沙汰人、乙名と呼ばれる地侍の指導者を選び、警察、裁判などもみずからおこない、武力を備えていました。

惣村を維持するため、惣百姓は寄合(=会合)をひらいて村掟・惣掟(=規約)を定め、財産として惣有地・入会地(=共有地)を持っていました。

領主と交渉して、年貢を請け負う百姓請(地下請)や、年貢の免除や引き下げを求めました。

惣村の動きに対抗するため荘園領主や国人は守護大名の力を頼りました。

守護大名は半済や守護請を行って荘園の支配を強めました。

惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課しました。

土一揆

農民は領主に対抗するために領主のもとにおしかけて訴える愁訴や強訴、山林に逃げ込んで耕作を放棄する逃散などの消極的方法をとっていました。

守護による領国支配が進むと、周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくり、一致団結した集団行動での一揆や、他村に逃げ込む逃散を行うようになります。

地域的に広いつながりをもって武力蜂起を行う土一揆を起こすようになると、守護大名と実力で対抗するようになります。

幕府の動揺

4代目の足利義持の時代になると、守護大名の勢力が増します。

足利義持の死に際し、義持は跡継ぎをみなで協議して決めるように伝えました。守護の力が上昇していたのです。

跡を継いだ足利義教はくじ引きで選ばれました。

正長の土一揆

足利義教があとを継いだ直後の正長元(1428)年、正長の土一揆が起こります。

近江坂本の馬借(運送業者)が徳政を要求したのをきっかけに、京都周辺の農民が参加して拡大したものでした。

高利貸業をいとなむ土倉、酒屋、寺院を襲い、売買、質入れの文書を破り捨て無効を宣言しました。

永享の乱(足利義教の万人恐怖) 室町幕府と鎌倉府

足利義教は土一揆を目の当たりにし、将軍権力の強化と守護大名の勢力を抑え込む政策をとります。

永享の乱は室町幕府と鎌倉府との関係において転換点となる出来事でした。

足利尊氏の庶子基氏が初代鎌倉公方として東日本を統御していた時期は、室町幕府と鎌倉府が対立することはありませんでした。

しかし、歴代の鎌倉公方は京都の政治抗争と連結することで室町幕府への対抗心を顕在化していきます。

鎌倉公方は将軍からの補任ではなく、鎌倉公方と京都将軍が親族でありながら、生涯一度も顔を合わせない間柄だったことも関係していたと思われます。

1438年に永享の乱が起きます。四代目鎌倉公方の足利持氏は六代将軍の足利義教から討伐され自害します。

それまでの鎌倉府と室町幕府の対立は鎌倉府により京都への策動でしたが、永享の乱は京都による軍事行動としてあらわれました。

室町幕府と鎌倉府の対立は応永末年から表面化していました。

上杉禅秀乱後、足利持氏が東国武家ながら足利将軍と主従関係を結んだ京都扶持衆の討伐を執拗に繰り返したからです。

室町幕府は永享の乱が始まるまで足利持氏に軍事行動の停止を要請し続けました。

乱の後、足利義教は関東管領上杉憲実の懇願にもかかわらず、足利持氏・義久父子の自害を強要しました。しかし、鎌倉公方と関東管領を中心とする鎌倉府の枠組みを解体する考えはありませんでした。

東日本の統御のためには鎌倉府という統治組織が必要だったのです。

そしてこの考えこそが畿内・西日本とは異なる東国武家社会の独自性・地域性を踏まえた室町幕府の東国政策でした。

上記のように永享の乱で鎌倉公方の足利持氏を攻め滅ぼすと、次いで守護大名の処罰を強行しましたが、守護大名の反感を買います。

嘉吉元(1441)年、嘉吉の変で播磨の守護大名・赤松満祐によって足利義教は殺されます。

徳政一揆

嘉吉の乱の直後に嘉吉の徳政一揆がおき、将軍殺害で混乱する幕府は徳政令をやむなく出しました。

この後、畿内を中心に徳政一揆が繰り返し起きますが、幕府は抑えきることができず、何度も徳政令を出します。

幕府は徳政令により土倉、酒屋からの税収が減少するのを補うため、借主・貸主の双方から分一銭(手数料)を受け取り、双方に徳政を認めたり、適用を免除したりしました。

享徳の乱(関東の内乱)

享徳の乱は1454年に、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことに端を発し、30年近く続いた内乱を指します。

戦国時代への移行時期は一般的に1467(応仁元)年の応仁の乱によると考えられてきましたが、関東では享徳の乱の勃発によって戦国状態に突入し、享徳の乱が応仁の乱にも影響を与えたことが明らかになってきています。

戦国時代への扉を開いた戦乱としての評価が確立するようになってきています。

享徳の乱の遠因は永享の乱です。

1467年に応仁の乱が起きます。関東の大乱となった享徳の乱が波及した内乱でもありました。

膠着していた戦況が大きく動くのは1471年のことです。上杉方の大規模な反攻が開始され、成氏は古河から脱出します。

この後、両陣営が和睦を望み、幕府の足利義政に書状をしたためます。

交渉の結果、足利義政から御内書が発給されます。こうして成った和睦を都鄙和睦とか都鄙合体と呼んでいます。

関東の諸勢力と幕府を巻き込んだ享徳の乱が終結します。

応仁・文明の乱

足利義教の死後、守護大名の勢力争いが激しくなり、細川勝元と山名持豊(宗全)を中心とした二大勢力が抗争するようになります。

応仁の乱は乱の開始時期と終結時期から「応仁・文明の乱」に名称が定着しつつあります。

一般的には将軍家の家督争いと理解されていますが副次的なものであり、本質的な原因は他にあると考えられるようになってきています。

足利義政の性格は周囲の意見に左右されやすいものでした。たびたび朝令暮改傾向が見られましたが、その判断に共通していたのは、将軍の権威を復興しようとした意志です。

それを支えたのが伊勢貞親ら足利義政の近臣達であり、対抗勢力が細川勝元や山名宗全を中心とする諸大名です。

両者の対立は斯波氏の家督争いで最高潮に達します。

対立は思わぬ形で収束します。伊勢貞親が足利義視に謀反の疑いありと足利義政に讒言したことにより、かえって伊勢貞親が没落したのです。文政の政変と呼ばれます。

足利義政の親政挫折し、足利義視は細川勝元の屋敷で政務を取るようになります。細川勝元と山名宗全が大名頭として義視を補佐し、義政は傍観しているだけでした。

しかしすぐに対立が起きます。畠山義就の復帰巡るものです。これに対抗したのが畠山政長でした。

これが乱のきっかけとなります。

管領の畠山家の内紛に将軍家の家督相続( 弟・義視と子・義尚(足利義政と日野富子の子)の後継争い)が絡み、そこへ細川勝元と山名持豊が介入して、細川方(東軍)と山名方(西軍)に分かれて戦いました。

この乱により将軍家は全国に対する実質的な支配権を失い、畿内を基盤とする政権へ変化します。

分割相続から単独相続へ

この時期、相続が分割相続から単独相続へ変わり、家を継いだ惣領の立場が強くなりました。

その代わり、その地位を巡って、一族や家臣団が争うことが多くなりました。

こうした争い通じて下位の者の実力が強化されていき、実権が主人から下位の者へ移っていきました。

11年続いた応仁の乱

応仁・文明の乱と呼ばれる戦乱は応仁元(1467)年から11年間続きました。

先制攻撃を行なったのは細川方でした。播磨国で戦闘が起き、京中でも戦闘が始まります。

事態の拡大を恐れた足利義政は畠山義就に下国するように命じました。足利義視も同意しました。

大名たちが細川方と山名方に分かれて対立した原因が畠山義就の上洛にあると考えたためです。

しかしこの時点になると、細川方は斯波義敏の復権、赤松氏の旧領回復を要求しており、これらに加えて正月の御霊合戦での細川勝元の遺恨が強く、事態の収拾は難しくなっていました。

京都は焼け野原となり、貴族や寺社だけでなく、幕府の没落・衰退は決定的になります。

諸国の荘園や公領は守護代や国人に取られます。これにより京都に住む支配層の生活の場と経済が崩される結果となります。

戦局は将軍義政を擁する東軍有利で進んでいましたが、大内政弘の上洛により大きく変化し、長期化の様相を呈します。

義政の意を受け伊瀬貞親の使者が西軍の主力の朝倉孝景を訪れました。そして寝返らせることに成功します。

同年に疫病が流行ったこともあり、戦乱の終結を望む雰囲気が高まっていました。

1472年に細川勝元と山名宗全の和睦交渉が開始されます。1473年には勝元も宗全も死去し、単独和睦が成立します。

応仁・文明の乱の終結は、両軍の戦い疲れ、守護大名が在国での実験を守護代や国人に奪われそうになったため、京都から引き上げたことによるものです。

守護大名家の家督争いは解決されず、守護大名間の争いは各地で起きます。

下克上の世

こうした状況の中で、国一揆や土一揆がおき、主君を実力で倒す家臣があらわれ、下剋上の世となっていきます。

山城の国一揆では、南山城の守護大名・畠山氏が畠山政長と義就の2派にわかれて争っていました。

文明17(1485)年、宇治の平等院で国人の集会が開かれ、両軍を国外に退去させて約8年にわたる自治を行いました。

明応の政変

1493(明応2)年、第十代将軍の足利義稙が廃され、従兄弟の足利義澄が第十一代将軍に擁立されます。これを明応の政変と呼びます。

義稙は将軍になるまで長らく美濃で生活していたため、京都の将軍直臣や大名たちと馴染みがなく、孤立しました。

求心力を高めるために義稙は戰を行い戦果を挙げます。そして将軍麾下の有力大名である畠山、斯波、細川のうち、畠山と斯波の要望を聞き入れ、細川を孤立させようとします。

これに対して細川政元が造反します。明応の政変の始まりです。これを支持したのが日野富子でした。

それまで日野富子は足利義稙を支持していたため、義稙の廃位、義澄の新将軍嗣立への支持という知らせは義稙陣営を大混乱に陥れます。

事件の主役は細川政元ですが、日野富子の挙動も重要な意味を持っていました。

中世後期にあっては、家督相続において、しばしば主人の意思よりも家臣の総意が優先されました。ただし、主家の家督相続については、家臣の総意だけでは十分でなく、主人やそれに準じる者の承認が必要でした。

日野富子はそれに準ずる者の役割を果たし、それがゆえに大した騒擾もなく、将軍の交代が行われたのでした。

市の賑わい

惣村の発達、生産物の多様化により、市日の回数が増え、月6回の六斎市になります。連雀商人、桂女などの巡回の行商人も増えました。

都市では見世棚のある常設の小売店が増え、京都や奈良では特定の商品を扱う専門の市場も生まれます。

商品を供給する問(とい)も増え、輸送のための馬借、車借などの運送業者も増え、港湾を結ぶ廻船の往来も盛んになります。

農業

栽培技術、灌漑技術の発達により、稲の収穫が大幅に増えました。

水稲の品種改良も進みます。早稲、中稲、晩稲の作付けも普及します。

二毛作が関東地方にも普及し、桑、楮、漆などの手工業原料の栽培が盛んになります。

食生活

2食から3食にかわり、禅宗寺院でつくられていた、うどん、とうふ、が一般に広まります。

野菜料理も発達し、広まります。

茶の栽培も広まり、茶商人が路上で一服一銭で売る茶を楽しみました。

手工業

手工業者は荘園から独立して注文生産や市場目当ての商品生産を行うようになります。

鍬、鎌、鋤などの農具や鍋、釜などの日用品が生産されます。

日明貿易の輸出品として刀剣が多く生産されました。

座と関所

京都や奈良では鎌倉時代に始まった商人、職人の同業者組合である座が大規模になります。

座は寺社や公家に税を納め、見返りに一定地域での売買の独占権や関銭の免除が認められました。

  • 大山崎油座
  • 北野神社麹座

荘園をうばわれた寺社や公家は、座にその財源をもとめていった動きを見出すことができます。

交通の要地に設けられた関所は、外国貿易がさかんになり、商品流通が進展すると、公家、寺社、幕府も関所をおいて関銭を徴収しました。

座も関所も、商人にとっては自由な売買や通行の障害となり、商工業の発展を妨げます。

貨幣(私鋳銭)

貨幣が発行されず、輸入の宋銭や明銭の永楽通宝などが利用される程度で、商工業の発展を妨げます。

粗悪な私鋳銭が流通したため、良質の銭を選ぶ撰銭がおこなわれ取引を混乱させました。

幕府や戦国大名は撰銭令をたびたびだし、貨幣間の交換比率を定めたり、流通貨幣の種類の制限を行います。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会) 本ページ
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
  24. 江戸時代(幕末)
  25. 明治時代(明治維新)
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