遠藤周作の「王の挽歌」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

九州を代表する戦国大名の一人、大友宗麟の生涯を描いた小説。大友宗麟はキリシタン大名としても知られ、遠藤周作氏らしい題材ともいえます。

小説は、大友宗麟の内面の葛藤に焦点を当てて進められていきます。心の平安を得るために、仏門にキリスト教に揺れ動く姿が印象的です。

『その思い出から逃れ、心の安らぎを得るため自分はどれほど五十七年の生涯、暗中模索をなしたことか、仏門も叩いた、基督教の話もきいた、それこそ宗麟にとって本当の戦いだったのだ。』

こう語られるように、大友宗麟の人生は、周囲の大名との戦いではなく、心の安らぎを得るための闘いだったのです。

心の安らぎを得るために戦い続けた大友宗麟と対比するようにして描かれているのが、豊臣秀吉であり、毛利元就です。

特に豊臣秀吉との対比は印象的です。

『なるほど遠い豊後に住まいをして自分は時勢に遅れたかもしれぬ。この大坂城のような壮大な城を持てなかったかもしれぬ。しかし自分には黄金の茶室を作るほど下賤な趣味はないことに宗麟は今の利休の嗤いで、誇りを感じ、勇気づけられた。』

大友宗麟の求めるものが、物欲による成金的なものを越え、さらに一つ高みに上った精神的なものであることを、こうした所にも見出すことができます。

キリスト教の修道士や司祭の姿は大友宗麟にとって世俗を越えたものとして映っていたのでしょう。彼らこそが、物欲を越えて精神的な安らぎをもたらしてくれるように思えたのかもしれません。

『彼にはこの津久見での静かな毎日だけで充分だった。主よ、私はもう疲れました…。』

『王のものは王に還り神のものは神に還るのだ、と宣教師たちはいつも言っていた。その通りなのだ。そして領地や権力に汲々としてこの世を送った者は、いつかそれが耐えがたい重荷だったことを知る―宗麟は自分の起伏のあった人生を通してその事実を心の底から知った。
(主よ、今の私が欲しいのは休息です。戦ではありませぬ。安らかなやすらぎ…)』

大友宗麟は戦国時代を生きるには余りにも精神的な求道者でありすぎました。

そして求道者でありすぎた割には、現実の世界での名声や力を持ちすぎ、優秀な家臣を多く抱えてしまいました。

より俗人的であったなら、得た富と名声、家臣を従え、広範な九州の覇者として君臨したかもしれません。

大友宗麟を主人公にした小説は多くはありませんが、赤瀬川隼「王国燃ゆ 小説 大友宗麟」があります。

大友宗麟が活躍した時代は次にまとめていますので、ご参照ください。

内容/あらすじ/ネタバレ

天正十四年四月六日。

大坂城の関白豊臣秀吉は機嫌が良かった。今日、九州の豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後を支配している大友宗麟がやってくる。老いた病弱の身に耐え、秀吉に救援を求めに来るのだ。

宗麟は大坂城を目にしてほとんど衝撃に似た感情で足をとめた。

その宗麟が秀吉を見た時、体が小さく顔も貧弱なのを見て、これが天下人とは信じられなかった。

秀吉は茶でもてなしてくれた。千利休の茶だ。その離宮の頬にかすかな薄笑いが浮かんだのに気が付き、何を意味しているのか瞬間で感じた。利休はすべてを黄金で埋め尽くす秀吉の趣味を嗤ったのだ。

宗麟には一人の宣教師(パードレ)以外にはだれにも打ち明けたことのない秘密がある。それは秀吉のような処世や戦いのための苦労ではなかった。

幼い時は塩法師丸、元服前までは五郎というのが宗麟の名である。

宗麟の父・大友義鑑は入田親誠を守役にした。義鑑は自分の本心を家臣に見せぬことが頭領たるものの心得とした男である。

入田は宗麟を厳しく育てると宣言した。腺病質の宗麟にとって、馬や弓の稽古より、歌や字を習うことに心ひかれていた。

入田は何か事が起きたら我が身を守るのは自分自身だといった。宗麟はその言葉に妙な暗示を感じた。

大友家には三つの柱がある。血縁・一族からなる同紋衆、鎌倉時代から仕えてきた国衆、豊後の外の国に住み大友家に帰服した新参衆だ。

十三歳の時、宗麟は一人の女性をみた。父・義鑑の側室小少将だ。すでに塩市丸という子がいるという。

もう一人との出会いがあった。田原親賢である。田原家は八代にわたって謀反を試みている。入田親誠は油断せぬようにといった。宗麟は大内家の血をひいている。だが、大友家と大内家はたびたび戦っており、できれば大内の血を排除したいという心理が大友家にはある。

裏切り。宗麟にとってはじめての言葉である。宗麟の人生に恐怖の種が生まれたのはこの日だった。

父と同紋衆の許しを得て宗麟は田原親賢に誘われた奈多神社の行幸会に父の名代として出ることになった。

この時、宗麟は親賢の妹・矢乃と会った。そして、背後にはやのの侍女が控えていた。

天文十五年。宗麟は十七歳となった。

この年、宗麟は婚姻相手を告げられた。将軍家血縁の一色義清息女だ。

天文十八年。宗麟二十歳。

宗麟は養生しろとの命がでた。いつか入田親誠が予告した通り廃嫡にするのかという想念が頭にひらめいた。

天文十九年二月。

入田親誠は舅の阿蘇惟豊とひそかに話し合った。大友義鑑の弟・菊池義武を家形にする謀反の計画だ。

彼らは直接手を下すのではなく、他のものを利用して殺すことをたくらんだ。

大友屋敷は大混乱となった。大友義鑑は胸を突き刺され、小少将と塩市丸は殺された。

これを聞いた宗麟は動揺した。そして、入田親誠が肥後に逃亡したと聞いて呆然とした。

後年、宗麟の心奥底に深い洞穴のようにつちかわれた人間不信はこの時植えつけられた。誰も信じられない。

父・大友義鑑の死が宗麟に大友家後継者の地位を与えた。

家督を継いだ宗麟は同紋衆などの圧力を少しずつ制圧していく必要がある。

その手始めとして田原親賢の妹・矢乃を正室に迎えた。

矢乃は宗麟の想像していた以上にはっきりとものをいう女だった。

大友屋敷が騒然となった。大内義隆にたいし陶隆房が謀反を起こしたのだ。大内義隆は宗麟にとって叔父にあたる。

この時期に宗麟はフランシスコ・ザビエルと出会った。短い間だが、ザビエルは宗麟の心に痕跡を残して日本を去った。その姿は日がたっても決して消えなかった。

代わりにやってきたガゴ神父と話すと、宗麟はいつもと違って精神的な何かが広がっていた。

毛利元就にとって待っていた機会が到来した。陶晴賢が大内義隆を弑逆し、宗麟の弟・晴英を大内の後継者に迎えて支配権を握ろうとしたからだ。

元就は老獪である。宗麟の弱気を見抜いて、いたぶることにした。元就にとって怖いのは両面作戦を取られることである。だが、それは杞憂で終わりそうだ。宗麟は弟を見殺しにするだろう。

矢乃は基督教を嫌悪している。宗麟の切支丹容認政策に不満を持っているものたちをたきつけている。

永禄二年。幕府は宗麟に豊前、筑前、筑後の三カ国の守護職、そして九州探題職を与えた。

宗麟が名目的にも出世を続けていく中、府内の病院ではアルメイダ達が黙々と命を救おうと働いていた。

毛利軍は大友軍を撃破した。

この敗北に、兵士の士気が落ちていることを指摘する向きがある。士気が落ちたのは宗麟が切支丹に帰依しているという噂が流れたからだ。そこを毛利に付け込まれたのだ。

宗麟は府内から臼杵に移り住むといった。隠居して出家したいと言い出したのだ。家督は義統に与えるという。元服までは宗麟が後見する。

臼杵に移ってからも毛利との競合は続いた。戦況は毛利に有利だ。だが、尼子一族の反撃が始まっていた。

高橋鑑種が謀反を企てている。信じられない話だ。

そして、永禄十一年。大友家の血筋を引く立花鑑載が反旗を翻した。

元亀二年(一五七一)。

宗麟を苦しめた毛利元就が死んだ。北からの脅威はなくなった。

家督は義統にゆずり、臼杵城に隠退したものの、実権は宗麟の手にあった。宗麟は国を富ますことに専念をしたいと考えた。

家臣には目を大友六カ国のみならず、海のかなたに向けよといった。狭隘な土地収益に汲々とする家臣団を戒めるつもりであった。

宗麟は次男親家を出家させるつもりでいた。家督を継いだ義統との争いをおこさせないためである。

だが、親家は鬱々として楽しまぬ。親家の守り役・鎮忠は親家に知恵を授けた。それは宗麟に禅よりも切支丹に心が動くと言えと。

この瞬間から親家は大人の世界に足を踏み入れた。謀略や策謀、偽善、嘘に満ちた世界に…。

日向では薩摩の島津家に傾く国人が増えていた。この日向の情勢は思ったより急速に悪化した。伊東義祐は島津義弘に徹底的に撃破されていた。

一五七五年。豊後における基督教の布教は順調に進んでいた。

カブラル神父は大友親家に教理を教えることにしたが、その教え方に問題があった。そもそもカブラル神父は日本人に対して好意を持っていなかった。

宗麟を困惑させていた国内問題は相も変わらず仏僧と仏教徒家臣の切支丹への憎しみだった。そのことを島津義弘は見抜いていた。

宗麟と矢乃との間に細やかな夫婦の愛情が失せたのは誰の目にも明らかだった。

宗麟の娘の婚約者で田原紹忍(親賢)の養子である田原親虎は基督教に傾倒していた。

そして見かねた紹忍は親虎を勘当した。それでも親虎は宗旨を捨てなかった。

宗麟は矢乃と別れることにした。矢乃の側には侍女の露がいた。

宗麟は露を妻として迎えることにした。それは教会での宣言であった。

今の宗麟には安息が欲しかった。大友の家形としても疲れ、一人の男としても疲れた。残された余生を心の安息のうちに生きたい…。

宗麟は自分の洗礼名を考えていた。それは初めて会った神父フランシスコ・ザビエルにちなんだフランシスコであった。

北日向には美しい土地があるという。そこを基督の国にしたいと宗麟は考えた。土地の名はムジカ(無鹿)。音楽の意である。

高城を囲んだのは田原紹忍を総大将とした四万三千とも五万ともいわれる大友軍団である。

だが、これが完膚なきまでにたたかれた。惨敗である。

宗麟にとってこの敗戦は衝撃だった。その信仰がその衝撃につぶれず、彼が神の意向を疑わなかったのはなぜだろう。

豊後における反切支丹派にとって、この敗戦は絶好の機会となった。先頭に立ったのは矢乃と田原紹忍だった。

大友軍が島津軍に大敗した知らせは竜造寺隆信の反乱につながった。竜造寺軍は立花城と岩屋城を包囲した。

国内では反乱も起き、すでに義統の指図に従うものがいなくなっていた。宗麟は再び表舞台に立たざるを得なかった。

宗麟が試練を受けた天正七年、都では織田信長も悪戦苦闘していた。この年、島原半島に一隻の南蛮船が入ってきた。そこにいたのはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父だった。

ヴァリニャーノ神父を引見した宗麟はフランシスコ・ザビエルに似ていると瞬間的に思った。

府内には学校も設立され、日本人はラテン語を学び、ヨーロッパ人修道士は日本語を学んだ。

宗麟の再出馬により、国東半島での田原家を中心とする謀反が鎮圧された。天正八年(一五八〇)のことだった。

宗麟はヴァリニャーノ神父を通じて畿内の状況を聞いた。そして織田信長の威勢を知った。信長にたいして鄭重であるにしくはない。それが宗麟の判断だった。

立花道雪を失って以来、大友家は島津家の脅威を退ける力を失っていった。

宗麟は、大友家にはもはや島津を相手にたたかう力はないと感じていた。

宗麟は関白秀吉の助けを求めるしかないと思っている。義統が赴かなければならないが、家形としての仕事がある。ここは宗麟自ら行くしかなかった。

島津家は秀吉軍団の装備や兵数を侮っていた。彼らが戦ってきたのは九州の土豪や国人たちである。

天正十五年一月。宇喜多秀家が出陣、羽柴秀長も、そして秀吉自ら出陣した。総勢十八万六千の兵である。

九州すべては関白秀吉の物になるだろう。だが、宗麟にとっては大友の家名と義統のために豊後一国が安堵されれば他はどうでもよかった。

王のものは王に還り、神のものは神に還る。宣教師たちが言っていた通りなのだ。

本書について

遠藤周作
王の挽歌
新潮文庫

目次

生き方の違い
父の血によって
家形となって
家形とパードレ
謀反の怖れ
宗麟対元就
無明の闇
女の死
毛利に勝つ
宗麟対島津義弘
遠い太鼓
離別の日
神の国
主よ、私は、疲れました
ヴァリニャーノ神父の野望
天正少年使節
最後の闘い
矢乃の死
臨終の頃
失ったもの
豊後の臆病者
父と子

登場人物

大友宗麟
矢乃…宗麟の正室
田原親賢
大友義統
露…矢乃の侍女
大友義統…長男
田原紹忍(親賢)
田原親虎
大友親家…次男
清田鎮忠

フランシスコ・ザビエル
ガゴ神父
アルメイダ
カブラル神父
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父
伊東マンショ

内田武左衛門
和田強善
臼杵鑑速
戸次鑑連
吉弘鑑理
佐伯惟教
一万田鑑述

大友晴英…宗麟の弟
大友義鑑…宗麟の父
小少将…義鑑の側室
塩市丸…宗麟の弟
入田親誠…守役
阿蘇惟豊
菊池義武…大友義鑑の弟

立花道雪(戸次鑑連)
高橋紹運
木付鎮秀

毛利元就
豊臣秀吉
千利休

島津義弘
竜造寺隆信
天王寺屋宗達

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