美福門院(藤原得子)と玉藻前(九尾の狐伝説)

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美福門院(藤原得子)

藤原得子(ふじわらのなりこ)。院号は美福門院(びふくもんいん)です。

生没は、永久5年(1117年)〜永暦元年(1160年)とされます。

平安時代末期の皇后で、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。

藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれです。

父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の娘・方子です。

父・長実の祖母・藤原親子(ちかこ)が白河上皇の乳母でした。そのため、藤原長実は白河院政期には院の近臣となります。

美福門院が活躍した時代については「テーマ:平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)」にまとめています。

略歴

藤原得子は父の死後、二条万里小路亭で暮らしていました。

  • 長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになります。
  • 保延元年(1135年)叡子内親王を出産。
  • 保延3年(1137年)暲子内親王(八条院)を出産。
  • 保延5年(1139年)皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産。同年、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とします。

体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになりました。

  • 永治元年(1141年)鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させました。近衛天皇です。

得子は国母であることを根拠に、異例中の異例として上皇の妃ながら皇后となります。

得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、縁戚関係にある村上源氏、中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成するようになります。

  • 永治2年(1142年)皇后得子呪詛事件が発覚し、待賢門院は出家に追い込まれます。これにより、得子の地位は磐石となりました。
  • 久安5年(1149年)美福門院の院号を宣下。
  • 久安4年(1148年)に得子は従兄弟の藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えました。

藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内承諾直後で、多子に対抗して入内させる意図がありました。

  • 久安6年(1150年)近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となりますが、呈子も関白・藤原忠通の養女として入内します。

藤原忠通は鳥羽法皇に、摂関以外の者の娘は立后できない、と奏上しました。

忠通は得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられています。

多子が皇后になると、呈子も入内して、立后、中宮となります。

得子は、待賢門院と同じ閑院流の出身である多子よりも、自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していました。

しかし、呈子が想像妊娠だったため、得子は忠通と組んで、皇位継承者を求めて動き出すことになります。

  • 久寿2年(1155年)病弱だった近衛天皇が崩御します。

得子には養子として、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と、雅仁親王(崇徳上皇の同母弟)の孫王(守仁、後の二条天皇)がいました。

孫王は出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものと思われました。

しかし、王者議定により孫王が即位するまでの中継ぎとして、父・雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになりました。後白河天皇です。

背景として、得子、藤原忠通、信西らの思惑が合致したためと考えられています。

  • 得子は、崇徳上皇の院政によって自身の地位が危うくなっていました
  • 藤原忠通は、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥っていました
  • 信西は妻が雅仁親王の乳母であったことから、権力の掌握を目指していました

孫王は、親王宣下を蒙り「守仁」と命名され立太子、元服、翌年に得子の娘・姝子内親王を妃に迎えました。

近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が流れました。

呪詛したのは藤原忠実・頼長父子であると、得子と藤原忠通が鳥羽法皇に讒言しました。

そのため、頼長は内覧を停止されて失脚状態となります。

  • 保元元年(1156年)、皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、失脚させられた藤原忠実・頼長が結びつき、鳥羽法皇が崩御した保元元年に保元の乱が勃発します。

得子は、卓抜な戦略的手腕を見せました。

重仁親王の乳母子で、鳥羽法皇の遺命では名が挙がらなかった平清盛兄弟を招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いたのです。

乱後は信西が国政を担うようになり、得子は自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求しました。

  • 保元3年(1158年)信西と得子の協議による「仏と仏との評定」で、守仁親王が即位します。二条天皇です。

二条天皇の即位は、信西一門・二条親政派・後白河院政派の形成・対立を呼び起こし、平治の乱が勃発する原因となります。

  • 永暦元年(1160年)、得子は平治の乱の収束を見届けた後、白河の金剛勝院御所で崩御します。

遺令により遺骨は高野山に納められました。女人禁制である高野山ではその妥当性が問題になります。

九尾の狐伝説から玉藻前伝説へ

藤原得子(美福門院)がモデルと言われる伝説上の人物・妖怪がいます。

玉藻前(たまものまえ)です。平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされます。

そして、玉藻前は九尾の狐の化身であり、正体を見破られた後、下野国那須野原で殺生石になったとされます。

玉藻前は、酒呑童子、茨木童子とともに三妖怪として知られます。(小松和彦「鬼と日本人」に詳しいです。)

玉藻前伝説に関する書物

玉藻前の伝説は、下記の書物にみられます。

  • 史書の「神明鏡」(南北朝時代末期、14世紀後半)の鳥羽院の条、能の「殺生石」
  • 御伽草子の「玉藻の草子」(室町時代)
  • 「下学集」(1444年)巻の中第三帳犬追物の注

江戸時代には浄瑠璃になりました。

  • 紀海音「殺生石」
  • 浪岡橘平・浅田一鳥・安田蛙桂「玉藻前曦袂」(たまものまえあさひのたもと)(1751年)
  • 松梅枝軒・佐川藤太「絵本増補玉藻前曦袂」(1806年)

高井蘭山の読本「絵本三国妖婦伝」では、唐土・天竺の条が増補され、殷の妲己も玉藻前と関連付けられ、九尾の狐の化身とされました。

九尾の狐の伝説として、殷の王・紂の后の妲己、班足王の夫人および周の幽王の后の褒姒などが挙げられます。

九尾の狐伝説

九尾の狐とは、9本の尻尾を持つ狐の妖怪です。

年を経て妖力を増した狐は尻尾が増えていき、最終的には9本まで増えるといわれています。

妲己

殷の最後の王・紂の后・妲己が九尾の狐とされます。紀元前11世紀ごろです。

王の妾・寿羊を食い殺し、その身体を乗っ取って王を惑わせました。

紂は酒池肉林にふけり、無実の人々を炮烙の刑にかけるなど、暴政を敷きました。

周の武王により捕らえられ、妲己は処刑されます。

しかし、処刑の際に妲己の妖術によって処刑人が魅せられ首を切ることができなくなりました。

太公望が照魔鏡を妲己に向けると、九尾の狐の正体を現しました。

太公望が宝剣を投げと、九尾の体は三つに飛散しました。

華陽

天竺の耶竭陀(まがだ)国(紀元前413年~紀元前395年)の王子、班足太子(はんぞくたいし)の妃華陽夫人も九尾の狐とされます。

王子へ千人の首をはねるようにそそのかすなど暴虐の限りを尽くしました。

耆婆(きば)が夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹の杖で夫人を打つと九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去りました。

褒姒

周の第十二代の王・幽王の后・褒姒(紀元前770年代)も九尾の狐とされます。

褒姒が笑わないので、幽王はさまざまな手立てを使って彼女を笑わそうとしました。

何事もないのに王が烽火を上げ、諸侯が集まったという珍事に初めて笑ったといわれます。

褒姒が笑うので、幽王はたびたび不要な烽火を上げ、諸侯を集めました。

やがて褒姒により后の座を追われた申后の一族が周を攻めたとき、王は烽火を上げたのですが諸侯は集まりませんでした。

幽王は殺され、褒姒は捕虜にされましたが、いつの間にか行方知れずとなりました。

後に若藻という16歳ばかりの少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、来日したとされます。

小説の紹介

周の末期をテーマにした小説です

玉藻前伝説と殺生石伝説

「絵本三国妖婦伝」によると殺生石伝説は次のような話です。

藻女(みくずめ)は、子に恵まれない夫婦によって大切に育てられました。

18歳で宮中に仕えると、鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前(たまものまえ)と呼ばれるようになりました。

そして、美貌と博識から鳥羽上皇に寵愛されるようになります。

鳥羽上皇が次第に病に伏せるようになりますが、医師には病の原因が分かりませんでした。

陰陽師の安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が病の原因が玉藻前の仕業と見抜きます。

玉藻前は正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中から脱走しました。

那須野で九尾の狐が悪さをしているとの噂が宮中に伝わり、鳥羽上皇は討伐軍を那須野領主・須藤権守貞信のもとへ送りました。

軍勢は8万。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常が将軍、陰陽師・安部泰成が軍師でした。

三浦介義明が九尾の狐を追っている中で見失います。

今の玉藻稲荷神社内にある鏡ケ池のほとりであたりを見まわしたところ、桜の木の枝に蝉の姿に化けている九尾の狐が写ったとされます。

玉藻稲荷神社の参拝録(栃木県大田原市)九尾の狐の伝説

玉藻稲荷神社の紹介と写真の掲載。那須には九尾の狐にまつわる伝説がある。もっとも有名なのは、那須岳の殺生石。この神社はひっそりと、それと知られていない、隠れた「九尾の狐」伝説にまつわる神社。

その後、討伐軍は那須野で九尾の狐に苦戦しますが、九尾の狐を仕留めることができました。

すると、九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになります。

村人はこの毒石を「殺生石」と名付けました。

時代が下り、南北朝時代。

会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊しました。

破壊された殺生石は各地へと飛散したと言われます。

殺生石の訪問録(栃木県那須町)九尾の狐が閉じ込められているという伝説の地

鳥羽上皇が寵愛した伝説の女性、玉藻前(白面金毛九尾の狐の化身)が正体をあらわし、数万の軍勢によって殺害され、石となったという逸話がある。

伝説の宇治の宝蔵に納められる

小松和彦「鬼と日本人」によると、ほかの逸話もあります。

久寿元年(1154)。鳥羽院の御所に一人の女房が現れます。

知恵・学問があり、院の寵愛を受け「化性前」と名付けられました。

詩歌管弦の会の折、嵐が起き暗闇になったとき、化性前の体が光り、殿中を明るく照らしました。

これによって「玉藻前」と名を改められました。

院は玉藻前を恐ろしく思いましたが、美しさに惑わされます。

契りを結んで日を送るうちに、院は病を得て日増しに重くなります。

安倍泰成が病の原因を占うと、玉藻前のせいだといいます。

下野国の那須野に800歳を経た、尾が二つで丈7尺の狐がいました。

もとは天羅国の斑足太子をだまして千人の王を殺そうとした塚の神で、仏法を敵として、王法を破壊しようと日本にわたってきたといいます。

泰成は、いやがる玉藻前に、幣取りの役をさせて祈祷を開始しました。

祈祷半ば、玉藻前は突然姿を消しました。すると、院の病は次第に快方に向かったのです。

院は上総介、三浦介の2人の東国の武将に那須野の妖狐を退治せよと院宣を下します。

両将は武芸に励み、神仏の守護を頼んで那須野に赴き、苦心の末に老狐を退治しました。

退治された狐は、宇治の宝蔵への収納されたという話と、川に祓い流したという話の、二つの説話が残っています。

遺骸の中から、仏舎利と白き珠(宝珠)、針が出てきたといわれています。

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