テーマ:安土桃山時代

この記事は約9分で読めます。

南蛮貿易と倭寇

16世紀半ばにマゼランが世界周航を成し遂げると、世界史が成立します。そして各国の歴史は世界史と密接な関係を持ち始めます。

明の海禁政策により、勘合が無いと貿易ができませんでした。そのため、非合法な中継貿易が行われ、倭寇が活動しました。

南北朝時代の倭寇は前期倭寇と呼ばれ、日本人が主体でしたが、後期倭寇になると日本人主体の海賊ではありませんでした。

天文12(1543)年、九州の種子島にポルトガル人を乗せた中国船が流れ着きました。ポルトガル人を乗せた船も中国人倭寇のものでした。

島主の種子島時堯はポルトガル人のもっていた鉄砲を買い求め、家臣に製法を学ばせ、日本で初めての鉄砲がつくられます。鉄砲は同時期に西日本にも伝来したようでした。

種子島に伝えられた鉄砲の影響は大きく、騎馬戦を主力とする戦法から銃を持った歩兵隊を中心とする戦法に切り替わり、家臣団の編成も変化します。

この後、ポルトガルは日本との貿易の利益が大きいことを知り、毎年のように貿易船を九州の諸港に派遣するようになります。

50年ほど遅れてスペイン人が肥前の平戸に来航します。

貿易は肥前の平戸・長崎、豊前の府内などで行われました。

当時、ポルトガル人やスペイン人は南蛮人と呼ばれていましたので、南蛮貿易と呼びます。

鉄砲や火薬、絹布が輸入され、銀や刀剣、海産物などが輸出されました。

キリスト教伝来

キリスト教伝来も日本の社会と文化に大きな影響を与えました。

イエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルが天文18(1549)年に鹿児島にきて、2年ほど各地を回りました。

宣教師が相次いで来日し、熱心に布教します。

宣教師が社会事業や医療活動などにつとめたこともあり、武士や商人、農民などにひろまり、各地に南蛮寺とよばれる教会堂やコレジオ(宣教師の養成学校)、セミナリオ(神学校)などが建てられました。

おもに西日本に広まり、信者の多くは貧しい人々で数十万人にもおよびました。

貿易を望む大名はすすんでキリスト教を保護し、キリシタン大名と呼ばれるものも現れます。

天正10(1582)年、天正遣欧使節が派遣されます。大友宗麟(義鎮)、有馬晴信、大村純忠らは宣教師ヴァリニャーニのすすめで少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。

織豊政権

戦乱のなかで、室町幕府の支配力は全くなくなっていました。

その中で、全国統一の先駆けとなったのが、織田信長でした。

  • 永禄3(1560)年 桶狭間の戦いで今川義元を破る
  • 永禄11(1568)年 上洛し、足利義昭を将軍にたてる
  • 天正元(1573)年 足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡する
  • 天正3(1575)年 長篠合戦で甲斐の武田勝頼を破る

近江に安土城を築いて、城下に商工業者をあつめて、楽市・楽座の制をおしすすめ、商人が自由に営業できるようにしました。

関所を廃止し、通行税の徴収をやめ、道路を修理し、物資の運搬や旅行が非常に便利になります。

堺を直轄領にしたのも、権力を強めるのに役立ちます。

室町幕府を滅ぼした織田信長が正当性の根拠とし、安定させる役割を果たしたのが朝廷でした。

信長は右大臣まで昇りますが、ほどなく辞任します。この評価を巡って、研究者の意見が分かれます。

信長と朝廷の関係を対立的に見る立場もあり、有力な学説ですが、著者は蜜月状態が続いていたとする説を支持しています。

朝廷が右大臣より上の官位を提供する意思を示しますが、態度を保留します。

山本博文氏は信長が朝廷の権威を借りずに武力で天下統一し、その後に何らかの官位に就いて室町幕府のような統治機構を作ろうとしたのではないかと考えています。

天正10年(1582)、本能寺の変で、明智光秀によって攻められて敗死します。

織田信長を継いだのが、豊臣秀吉でした。

  • 天正11(1583)年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、同年、石山本願寺跡に大坂城を築き始めます。大坂には堺の商人も移り、長く日本の経済の中心になります。
  • 天正13(1585)年 長宗我部元親を降伏させ四国を平定
  • 天正15(1587)年 島津義久を従えます。

信長の後継者になった秀吉も、後継争いに勝つまでは官位にこだわりませんでした。

朝廷が秀吉を信長の後継者として認めると、武家政権を委ねる姿勢をはっきりと示します。

秀吉は関白、太政大臣になり、朝廷から豊臣姓を与えられます。

これまでの武家政権は征夷大将軍になることで支配権を確立してきましたが、秀吉は公家の就く官職である関白になって武家政権を運営しようとしました。

惣無事令(豊臣平和令)により、地域紛争の停止と紛争解決の裁定権を自分にゆだねることを要求し、従わない場合軍事行動に訴えました。中世社会の慣習だった自力救済権が否定されることになりました。

  • 天正16(1588)年 京都の聚楽邸に後陽成天皇を迎え、その際に諸大名に忠誠を誓わせました。
  • 天正18(1590)年 小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗ら東北の諸大名を服従させ全国統一をなしとげます。

検地と刀狩

近世の始まりは織豊期からとするのが一般的です。寺社や一向一揆、国人一揆など複数の権力が分立していた中世的支配構造を克服し、一元支配に成功したからです。厳密な議論をすれば、秀吉の刀狩りによって実現した兵農分離が近世の画期と考えられます。

秀吉は征服地を家臣に分け与えました。蔵入地と呼ばれた秀吉の直轄地は200万石余りでした。

京都、大阪、堺、伏見、長崎などを直轄地とし、財政的基盤を固めます。

主な街道を整備し、天正大判などの貨幣を鋳造しました。

太閤検地では、中央から役人を派遣し、全国ほぼ同一の基準で耕地や宅地の面積、等級を調べ、耕作者とともに検地帳(水帳)に登録しました。

一地一作人の原則により、検地帳に登録された耕作者は、年貢や労役の負担者とされました。これにより、荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なり合う状態が否定されます。支配・権利関係が複雑だった荘園生の名残が最終的に終焉を迎えたのです。

耕作から離れた兵と、武器の使用を否定された農が分離された体制を、近世の本質と考えられます。

秀吉は全国の土地を支配し、大名の配置換えも容易くなり、近世封建制の基礎が固まります。

刀狩では、天正16(1588)年に刀狩令をだし、農民から武器をとりあげました。これにより兵農分離が進みます。

天正19(1591)年に人掃令(身分統制令)を出し、武士、農民、町人などの身分や職業を固定する方策が進められます。

人掃令は、武士一般にまで及ぶものではなく、武家奉公人、町人、農民の身分の移動を禁じたものでした。

翌年、この令をもとに全国の大名に戸口調査を命じます。目的は朝鮮出兵に際しての陣夫を調達するための調査でした。結果として、これが身分を固定化する統制令の性格を持つようになります。

支配組織が整ったのは、晩年のことで、石田三成らの五奉行、徳川家康をはじめとする五大老の制度が軌道に乗ります。

秀吉の対外政策

はじめキリスト教を認めていましたが、信者の増加とともに、神社や寺院が破壊されることも多くなりました。

天正15(1587)年 九州出兵の際に博多でバテレン追放令を出し、宣教師を国外追放とし、不況を禁止します。

大名のキリスト教信仰も禁止されますが、信仰を捨てなかった高山右近は領地を没収されます。

一方で、一般の武士や庶民の信仰は禁止されませんでした。

発令の直接の原因が、長崎が教会領となっていたことで、スペインやポルトガルがキリスト教の布教を通じて植民地化を進めているという危機感を強めたためと考えられます。

外交面では、倭寇などの海賊的行為を禁じ、日本人の海外発展を助け、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになりました。

唐入り

豊臣政権の最大の謎は唐入りです。

明の制服を企て、まずは朝鮮に対して国王の入貢を明への先導を求めましたが、朝鮮が応じなかったため2度にわたって出兵を行います。

しかし、文禄・慶長の役では明の援軍や、朝鮮民衆の抵抗にあって苦戦を強いられます。

近世外交史が専門の武田万里子氏によれば、秀吉の目的は明の制服ではなく、明を屈服させて大明四百余州のうち百カ国を割譲させようとしたものでした。寧波を中心とする中国沿岸部と周辺地域と推測しています。

この説によれば、秀吉は東アジア海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたと考えることができます。

慶長3(1598)年、豊臣秀吉の死によって全軍が撤退します。

桃山文化

この時代は、下級武士や農民から身を起こした新しい大名や、商工業の活発な活動によって富を得た豪商が現れました。

新興勢力が支配的になり、文化でも大きな変化が現れます。

仏教色がいちじるしく薄れ、現実の生活を楽しむ風が強まり、南蛮文化がさかんに取り入れられました。

城は壮麗な石垣と天守閣があり、城主の居館は彫刻や絵画で飾られました。

狩野永徳や狩野山楽らが中心となり、金地に豊かな色彩を用いた濃絵が襖や屏風に描かれました。

京都、大坂、堺、博多などの富裕な町衆の文化も花開き、茶道、花道、能、狂言などが流行しました。

茶道では千利休が侘茶を完成させ、織田有楽斎、古田織部らの大名も茶道の流派を開きました。

茶席の茶碗も朝鮮出兵のときの朝鮮の陶工によって、有田焼、薩摩焼、萩焼、平戸焼などが始められました。

娯楽も豊かになり、17世紀初めの慶長年間には、出雲の阿国が京都に現れ、阿国歌舞伎として人気を集め、女歌舞伎が盛んになります。

琉球から渡来した三味線を伴奏にした浄瑠璃、それに合わせて人形をあやつる人形浄瑠璃も流行します。

各地では盆踊りも盛んになります。

京都では2階建ての民家もでき、瓦屋根も用いられ始められました。

衣服では小袖が一般的になります。女性は小袖の着流しがふつうとなり、女性は垂れ髪の髪型も結うようになり、男性は烏帽子はかぶらず、まげを結うようになりました。

南蛮文化がさかんになるにつれ、南蛮風の衣装を身に着けたり、南蛮菓子も現れました。カッパ、カステラ、コンペイトウ、パンなどの言葉は今日まで残っています。タバコを吸うようになったのもこの頃からです。

宣教師たちは、天文学、医学、地理学などを伝えたほか、油絵、銅版画の技法をもたらしました。

宣教師によって活字印刷術も伝えられ、キリスト教関係の本やキリシタン版・天草版の「平家物語」「伊曽保物語」なども刊行されます。

活字印刷は朝鮮からも伝えられました。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会)
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代 本ページ
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
  24. 江戸時代(幕末)
  25. 明治時代(明治維新)
タイトルとURLをコピーしました