テーマ:飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)

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蘇我氏の台頭

6世紀ころになると、勢力を伸ばしたのが蘇我氏でした。飛鳥の地に進出し、漢氏(あやうじ)などの帰化人の知識・技術を用いて、財政・生産を担い、仏教を広めました。

二人の娘を欽明天皇后とし、皇子・皇女を即位させて外戚としての地位を築きますが、二人の系統の間で皇位継承の争いが起きます。

大王の地位は父子の直系とは限らず、兄弟間で継承されることがありました。

  • 587年:大臣の蘇我馬子は物部守屋を滅ぼします。
  • 592年:崇峻天皇を暗殺します。

蘇我・物部戦争(丁未の役(ていびのえき))

587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした戦いを近年は「丁未の役(ていびのえき)」と呼ぶことが多いです。

従来、仏教の受容を巡る豪族間の対立とされ、崇仏派の蘇我氏が排仏派の物部氏を武力で打倒した事件と理解されてきました。

しかし、これは後年に仏教関係者が行った造作に過ぎないとする説も提示されています。

6世紀の物部氏は、東漢氏や南河内の渡来人と結んだ蘇我氏に対抗して、西漢氏や中河内の渡来人との関係を深めていました。

そのため物部氏が排仏派と考えるのには無理があるようです。

蘇我氏は蘇我稲目の代に政界の表舞台に登場します。

蘇我氏は没落した葛城氏の支族の可能性があり、5世紀代の大王家葛城氏の姻戚関係踏襲します。

しかし実質的に新興氏族に過ぎない蘇我氏は、前代以来国政に参画してきた有力氏の物部氏と比較すると、政治力、軍事力、経済力のいずれにも劣っていました。

蘇我氏と物部氏の政治的抗争

この蘇我氏が物部氏を追い落とすことができたのは、大王家との通婚により外戚の地位を得たことと、マヘツキミ勢力と連携して物部氏を孤立化させたからでした。

物部氏が大王家と通婚できなかったのは、王権直属的な勢力からキサキを出さないのが古くから慣例だったためで、物部氏は蘇我氏の大王家との一体化を強める様子を座視するだけの状況でした。

またマヘツキミの大半が蘇我氏と同じ大和や畿内の土豪出身であり、葛城氏衰退後の逆境を乗り越えた一族であり、共通の利害関係に立っていました。

こうした中、587年に用命大王が急逝します。天然痘と見られます。

オホマヘツキミとマヘツキミが宮中に集められ、会議が開かれます。

日本書紀によると会議は用命大王の仏教帰依是非を巡るもので、崇仏派と排仏派の対立が激化したされます。

しかし真の狙いは用命大王後の王位継承問題を含め、重臣の意思統一と政治混乱の回避だとみられます。

物部守屋は会議で孤立します。守屋は馬子とマヘツキミの包囲網に追い詰められ、勝ち目のない戦に打って出るしかありませんでした。

物部氏は強力な軍事氏族でしたが、単独での挙兵の帰趨は最初から決まっていました。

日本書紀ではこの戦いを宗教戦争と位置づけましたが、実際はマヘツキミ勢力を巻き込んだ蘇我氏と物部氏の政治的抗争に過ぎませんでした。

推古天皇と聖徳太子

推古天皇の即位

こうした政情不安定な中、推古天皇が初めて女帝として即位します。皇位継承に難しい問題があるときに、先帝の皇后が天皇としてたてられる、その後の例を開きました。

甥の聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となり、蘇我馬子とともに政治にあたります。

飛鳥に宮をかまえましたので、飛鳥時代と呼ばれます。

聖徳太子の政治

603年:冠位十二階の制が定められます。徳・仁・礼・信・義・智の6つをそれぞれ大小にわけて12階にしたものです。

これまでの氏姓制度とはことなり、個人の功労に応じて与えられる制度でした。

豪族を官吏に編成してゆく第1歩となります。しかし、皇族や蘇我氏には適用されず、豪族も畿内に限られたようです。

604年:憲法十七条が制定されました。君・臣・民の関係を示したものです。政治の基本秩序は儒教に求め、心構えとして仏教精神を強調しました。

「天皇記」「国記」などの国史(歴史書)が編集され、天皇の称号が用いられるようになります。

皇統をめぐる争い 「皇統」における「直系」

聖徳太子の時代から南北朝時代までは大王家(天皇家)の後継者をめぐる争いによって動いてきた面が大きいと見られるからです。

後継者争いを考える時、「皇統」における「直系」を理解すると古代史の理解が進みます。

直系とは父子で皇統を継承していくことで、古代においては天皇の血筋を引くだけでなく、母が皇女であることを指します。

この視点で系図を見ると、天皇と皇女の間に生まれた皇子以外は、天皇になったとしても一代限りの中継ぎの位置付けしか与えられず、子供に皇位を引き継げなかったことが見えるそうです。

皇統は天皇家の中の純粋な血統により再生産されるべきものだったというわけです。

この考えは古代史の専門家の間で完全に同意されているわけではないようですが、この説に従うと、古代史の政争の多くが説明できます。

厩戸皇子(聖徳太子)が天皇にならなかった、なれなかった問題

蘇我氏によって崇峻天皇が殺された後、厩戸皇子(聖徳太子)が天皇にならなかった、なれなかった問題も理解できるというのです。

厩戸皇子は用明天皇の皇子で、母は欽明天皇の皇女穴穂部でしたが、用明天皇の母は蘇我稲目の娘堅塩媛でしたので、用明天皇が傍系の天皇と見られたいたことは間違いありません。

厩戸皇子のライバルには直系である敏達天皇と王女広姫の皇子押坂彦人大兄皇子がいました。

そうであるからこそ、押坂彦人即位を防ぐため、伯母で敏達天皇の皇后だった推古天皇を中継ぎとして即位し、その下で厩戸は政治を行い、次代の天皇として豪族に認められることを狙ったということになります。

しかし厩戸皇子は皇太子のまま没し、天皇になることはありませんでした。

推古天皇の死後、押坂彦人の子が即位して舒明天皇となります。舒明天皇の死後は皇后が即位して皇極天皇になりますが、厩戸皇子の子である山背大兄王の即位を阻止するためでした。

舒明天皇の子、中大兄皇子が天智天皇となるまで抗争が続きます。

論点
  • 2010年京大:推古朝の政策とその特徴が問われました。
  • 2005年阪大:飛鳥時代には、日本史上の画期となる政治制度が始められ、新たな文化現象も起こりました。それらを関連づけて歴史上の意義について問われました。

遣隋使

隋が589年に中国を統一し、朝鮮半島の百済と新羅が朝貢し始めます。高句麗は従わず、隋は遠征しますが、失敗します。

朝廷は607年に、第二次遣隋使小野妹子を隋に遣わし、翌年に隋が裴世清(はいせいせい)を来日させます。

裴世清の帰国時に再び小野妹子を遣わし、高向玄理、僧南淵請安ら多くの留学生・学問僧を遣わします。

朝廷は隋と対等の外交形式をとりましたが、562年に加羅をほろぼした新羅に対して優位な立場に立とうとしたことにありました。

巳の変と大化の改新

618年、が誕生します。

律令制度による中央集権体制を完成させ、勢力を朝鮮半島におよぼします。

高句麗、百済、新羅は国内の権力を集中させて改革を進めますが、相互の緊張が高まり、645年、唐が高句麗を攻めると、半島情勢は緊迫します。

この情勢は国内の緊張を高め、蘇我氏は権力を伸ばして、蘇我馬子のあとには蘇我蝦夷が大臣となります。

皇極天皇の時代には蘇我入鹿が、対立していた聖徳太子の子・山背大兄王を攻め、政権の独占を図ります。

これが皇族や他の豪族の強い反発をまねきました。

この頃、留学生が帰国し、唐との律令制度に関する知識を持ち帰ります。

巳の変(いっしのへん)

中臣鎌足(藤原鎌足)は律令に基づく統一国家を考え、蘇我入鹿に反発していた中大兄皇子とはかり、645年武力による政変を起こし、蘇我蝦夷・蘇我入鹿を倒します。

645年に起きた政変は、かつてその後の政治改革と合わせて大化改新と言われていました。

近年では区別して、政変を乙巳の変(いっしのへん)と呼び、政治改革を大化改新と呼ぶことが多くなりました。

政変は蘇我入鹿が中大兄皇子らによって暗殺され、蝦夷が自死を選びました。

権勢を奮っていた蘇我本宗家が滅亡し、天皇家を中心とした国家形成がスタートする画期となります。

日本書紀では天皇家をないがしろにして政治を独断したように書かれていますが、全面的には信用できません。

東アジア世界の動乱

当時、東アジア世界では動乱が起きており、朝鮮半島の政変の一部はヤマト王政権にも伝わっている可能性がありました。

近年の学会では、こうした情勢の変化にヤマト政権は敏感に反応した考えられています。

ヤマト政権は朝鮮半島の情勢を踏まえ、強力な指導力を発揮できるリーダーを定めて新たな政治体制を模索していた可能性があります。

蘇我入鹿は古人大兄皇子を王位に就けようとしていたと考えられます。それを伺わせる事件が3年前の643年の上宮王家滅亡事件です。上宮王家滅亡事件とは山背大兄王を襲撃した事件です。

643年、645年と続いた権力闘争の契機は東アジアの情勢でした。

乙巳の変の後すぐに孝謙天皇をたて、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ)として実権を握ります。

政策立案のため、帰国していた僧高向玄理国博士に任じます。

大化の改新

そして、はじめての元号・大化を定めます。ここに大化の改新と呼ばれる一連の改革が始まります。

646年4か条からなる改新の詔が出されます。

  1. 公地公民制:皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて公地・公民とし、豪族には食封を与える
  2. 中央(京・畿内)と地方(郡)の行政区画を定め、軍事・交通の制度を定める。
  3. 戸籍・計帳をつくり、人民を登録、班田収授を行う
  4. 新しい調などの税制をさだめる

実現には数十年の年月を要しました。

小説の紹介

この時期をテーマにした小説です

近江の朝廷

改新のあと、朝廷内部の不和や分裂がつづきます。

都は難波へ移りますが、中大兄皇子と孝徳天皇が不和となり、中大兄皇子は飛鳥へ帰ります。孝徳天皇は難波で病死し、子・有間皇子が謀叛をくわだてたとして処刑される事件が起きます。

継いだ斉明天皇は、宮廷造営の土木工事、阿部比羅夫による蝦夷遠征をおこないますが、政情は安定しませんでした。

白村江の戦い

朝鮮半島では新羅が統一を進め、660年に唐と結んで百済を滅ぼします。

百済では、豪族が兵を集めて新羅と唐に抵抗し、朝廷にも救援を求めてきたため、朝廷は百済を救うためにに兵を送ります。

661年に第一次派兵を行い、662年に第二次派兵を行います。

しかし663年、倭国は滅亡した百済を救援するために朝鮮半島に兵を送り、白村江の戦い(はくそんこう/はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、朝鮮半島での地位が失われます。

668年には高句麗も滅ぼされ、新羅によって朝鮮半島は統一されます。

国内の対応

白村江の戦で敗れると、中大兄皇子は新羅と唐の攻撃に備え、太宰府に水城と山城をきずき、対馬と筑紫に防人をおきました。665年には複数の城を築きました。

666年に唐が再び高句麗を攻めると、667年には都を近江の大津宮へ移し、西日本各地に城を築きます。そして翌年668年に中大兄は即位して天智天皇になります。

唐は倭を攻める理由があまりなかった可能性があり、高宗による泰山での封禅の様子が伝わると、各地の築城をやめています。そのため古代山城に築城途中のものがあると考えられています。

都と大宰府をむすぶ山陽道には16kmごとに駅家がおかれ、20頭の軍馬がいざというときのために備えられていました。

当時の高い危機意識を伝える遺跡とみることができる巨大道路ですが、対外的な危機がやわらぎ、律令国家が変容するにつれ、道路は荒廃していきます。

本郷和人氏によると、663年の白村江の戦で、ヤマト政権はいつ唐に侵略されるかわからない危機に直面し、都を飛鳥から近江へ遷し、内政改革・国防強化に着手します。

白村江の戦の敗戦により、ヤマト政権はアイデンティティ・クライシスに陥ったと考えられ、政権は独自のヴィジョンを打ち出していくことになります。大和朝廷は氏族集団の連合体から、単一国家建設への機運が高まります。

この時期に「天皇」の呼称が生まれ、「古事記」「日本書紀」の編纂が始まり、法隆寺や伊勢神宮が作られるのは偶然ではなく、敗戦により、敵国である唐の先進性を採り入れ、自国の強化を図っていったためと考えています。

論点
  • 2011年東大:白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成と、白村江での敗戦は、日本古代の律令国家の形成にどのような影響をもたらしたのかが問われました。
  • 1992年東大:660年百済が唐・新羅の連合軍の進攻によって滅亡し、663年に白村江の決戦で大敗するまで、日本の朝廷はなぜこれほど積極的に百済を支援したのかを、国際的環境と国内的事情とに留意して問われました。

壬申の乱

天智天皇は、最初の令(りょう)である近江令を定め、670年には戸籍である庚午年籍をつくりました。

しかし、天智天皇が亡くなると、672年に子・大友皇子と弟・大海人皇子とで皇位をめぐる争いが生じ、畿内、美濃、伊賀、尾張の地方官や豪族を巻き込む内乱(壬申の乱)が起きます。

反乱を起こした側が勝ち、大海人皇子から天武天皇となり、天武系の皇統が約100年続きました。

壬申の乱は皇位を巡る争いでしたが、当時の社会・国際情勢が絡んでいました。

大海人皇子はそれらの情勢を読み取り、不満分子を取り込み、天皇を頂点とする中央集権的体制へ加速して、後継者による701年の大宝律令の成立へ結びつけました。

壬申の乱は律令国家体制成立の道程としても大きな意味を持ちました。

天智朝で大海人皇子が東宮であったという見方は後退していますが、最も有力な皇子だったことは疑いの必要がありません。

しかし天智天皇と大海人皇子の間には確執が芽生えていたようです。

壬申の乱の原因

百済救援の最中に始まった天智朝は、大化以来の中央集権体制形成の施策には豪族らや民衆の反発を招く面があり、乱の伏線になります。

外交方針をめぐる対立が乱の原因と考える見方もあります。

671年に天智天皇が病床に伏すと大海人皇子は吉野に隠退します。

皇位継承が問題となる中、大友皇子は体制固めをし、大海人皇子が宮廷内に残ると紛争が起き、しかも大海人皇子の方が不利と見て吉野に退いたと考えられます。

外交方針を巡る対立の先鋭化から身を避けた面も考えられます。

壬申紀によれば672年に、朝廷の攻撃から身を守るためやむを得ず立ち上がったとされます。しかし、壬申紀の挙兵理由は信用できないものがあります。

挙兵は計画的だった

かつては乱の計画非計画論争がありましたが、今日では計画性を認めるのが普通で、大津退去時から反乱の意志を持っていたともされます。

大海人皇子は東国で国司を味方にし、迅速に兵を集めました。動員の範囲は美濃、尾張、伊勢、その周辺地域と考えられます。

大海人皇子が兵をすぐに集められたのは、朝廷が唐の要求に応じ、新羅派遣軍を準備しており、これが整ったタイミングだったという説があります。新説ですが、有力と言えます。

もしくは、美濃や尾張での山稜造営名目の兵を接収したという説もあります。

大海人皇子の東国入りを知った近江の朝廷は大騒ぎとなりました。

朝廷の大海人一族への警戒が元々緩かったと考えられます。

大海人皇子の勝因は、不破と鈴鹿を閉じて朝廷と東国を遮断し、東国の軍事力を自己のものにしたことです。

これにより軍事力に大きな差が生まれました。

また、大海人皇子への支持の広がりもありました。背景には半島出兵と敗戦、その後の防衛の負担、改革への不満などが重なり、大海人皇子が排除され、大友皇子が継承することへの不満があったのでしょう。

673年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となります。

論点
  • 2001年阪大:六七二年に起こった壬申の乱の原因と、その影響について問われました。
  • 2000年京大:天武天皇の時代はどのような時代であったかを問われました。

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱) 本ページ
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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